父の夢を見た記事をアップして、
1年くらい前にも見た、印象的な父の夢を思い出し、
夢日記より、改めて書き出してみました。
──足の親指から生まれた一寸ジジイの夢
足の親指から、『ちっさいおじさん』が出てくるという夢を見ました。よく見ると、ただのちっさいおじさんではなく、数年前に他界した私の父でした。
しばらくすると、父はまた指の中に戻り、そのあと、口の中から再び出てきました。親指姫ならぬ親指おやじというか、一寸法師ではなく一寸ジジイというか、小さな小さなミニチュア親父が、私の体の部分から現れ出るという、とてもファンタジックな夢でした。
奇妙奇天烈な、ある意味とても夢見らしい夢見ではありますが、だからこそ夢見というのは、奇妙で、違和感のある神話的な含みを覚えてしまいます。
──神の身体の一部から発生する神々たち
神話の神々は、とくに、世界の興りを想起させる神々は、母神からの出産というより、神様の一部分から発生するように描かれることが多いように思います。
たとえば、古事記にあるアマテラスとスサノオの誓約(うけい)と呼ばれる一節には、アマテラスはスサノオの持っている剣を口に入れて噛み砕き、その時の息の霧から三柱の女神が生まれ、そのあと、アマテラスのもっていた勾玉をスサノオが噛み砕くと、その息の霧から五柱の神々が生まれたというものがあります。
また、ギリシャ神話の有名な女神アフロディーテ(ヴィーナス)は、天空神ウラノスの切り取られた男根が海に落ちて、その時沸き立った泡から生まれたとされていたり、エジプトのライオンの顔をした女神セクメトは太陽神ラーの左目から、あるいは、象の神様で有名なインドのガネーシャ神は、母親のパールバティが体を洗った時の垢から……等、神様が神様の一部から現出するお話は、まだたくさんあります。
また、それらの神話は、近親関係間に見られる例が多く、たとえばアマテラスさんとスサノオさんは姉弟ですし、そもそもお二方とも、イザナギさんの左目からアマテラスさん、鼻からスサノオさんが生まれています。
近親者と結婚したり、あるいは交わって、あるいはやりとりの中で生まれ出る神話は世界中にあります。
一寸爺の夢見でも、私の足の親指と口内から出てきたのは、紛れもなく私の亡父でした。
──生死の端境(はざかい)を見せてくれる神話と夢見
父が夢見に登場することは、昔からよくありましたが、このような形で出てきたことは、たぶん、父の生前にはなかったことだと思います。
この夢は、父が他界しているからこそ、見ることが叶った夢であるように思えるのです。
つまり、生死が隣り合わせであること、それこそが神話世界であること。
神話の世界は、現実と照らし合わせると、夢見のごとく違和感だらけです。
しかし、神話世界側から、人間の現実を「あえて」眺めてみると、
それはそれで、不思議と違和感だらけに思えてくるのです。
夢見側からは、死は単に忌むべきものではなく、生の喜びと等価だとも思えます。
こういうと、生という面でしか愛でて見てこなかった私たちは、少し怖れを感じるのではないでしょうか。
死を受け入れたら、生を粗末にするのではないかと。
でも、本当は逆で、生死が等価であるからこそ、生は生として、より輝ける。
死という生の裏付けが、本質的に美しいものであり、神話的であるとわかってはじめて、生の中に、こころからくつろげるのかもしれません。
死という名で呼ばれるものの中に、神話のような生の神秘が垣間見られます。
それを、私たちに人間に、直で教えてくれるのが、夢見だと思うのです。