祇園祭。
烏丸通りを上がる。
広く歩行者天国。屋台が立ち並ぶ。
時間さえあれば、かたっぱしから山鉾とその会所を立ち寄りたいけれど、もう10時半で、小学生の鈴と二人。
孟宗山(もうそうやま)を左目に映して、ずっと上がっていく。
鈴が「とうもろこし食べたい」と言い出す。
そうじゃなくても、さきほどから、ちょこちょこと屋台でつまんでいるので「明日」と言う。
祭の屋台の相手していたら、すぐに三千円くらい飛んでいってしまう。(^^;)
ちなみに孟宗山の起源。中国の故事を題材。
病床の母のために、母のほしがる筍を探す孟宗。
雪の中で、筍を掘り当てる。
ご神体は、雪をかぶりながら筍を手にしている、うれしく誇らしい孟宗の姿。
雪の下の筍‥‥夢の中のような、なんとも素敵なファンタジー。
† †
鈴は、ブログにおけるペンネームだけれど、本名もこの一字も含んでいるし、自分のハンドルネームでもあるので(彼女もブログを運営している)、寄ってみたくなったらしい。
鉾の前で記念撮影。
すぐ近くの会所に寄る。
会所に入って、神々しい工芸品にクラッとくるけれど、なによりも、心が動かされたのは、「瀬織津姫神」と大きな文字で掲げられていたことであった。
係りのオバチャンに、「ここのご神体は瀬織津姫なんですか?」と聞いた。
そうらしい。鈴鹿山の起源は、こう。
伊勢国鈴鹿山で人々を苦しめた悪鬼を退治したのが鈴鹿権現、瀬織津姫命である。
わたしは、なんだか、すごいショックを受けていた。
瀬織津姫については、十二、三年くらい前に、玉依姫命つながりで、たまたまご縁を感じた下鴨神社で、そこの夏越時のお祓いの御手洗社の女神さまだということを調べて、またこの姫の一文字「織」は、わたしの本名の一文字でもあるので、とても親しみを覚えた神であった。
鉦で脳天を直撃された折も折り、ここで「再会」したのか‥‥という、心ゆさぶられる何とも言えない気持ち。
オバチャンが、「その奥に、ご神体も奉ってるし、良かったら拝んでいってください。ちょっとびっくりするくらい大きいぇ」と。
ほんと。
あまりに間近で奉られているので、どきっとするくらい大きく思える。
思わず手を合わせる。
鈴が「お面、かぶってやはるやん」というので、「そうやな、能面かぶってやはるな」と言う。
「お面の下は、すっごい美人やと思うわ」と鈴。
「なんで?」
「わからんけど、そんな気がする」
そして、次、鈴のいった言葉。
「なんか、懐かしいわ」
へ?アンタ8才やろ?(爆)
「なにが?」
「わからん。うまいこと言えへん」と言った。
わたしは、心の奥で、このごろよく聞く言葉を一つ、はっきりと聞いた。
神話を帰着させる‥と。
神の声ではなくて、「私の」声。「こころの」声。
そう。神の声などは聞く気はない。(笑) したがってチャネリングなどにもほんとのところ全く興味はなく(似たことはやってないとも言えんが‥‥^^;)、わたしを真に動かすのは、「私の声」以外にありえないのである。
ここに至っては、男もいらぬ。(爆)
しかし、神聖な穢れなき、わたしだけのサンクチュアリである。
意味はわからないが、これは、つきあげられるような動機となっている。
意味がわからないまま駆け出してしまうところが、たぶん、これから生涯かけようと思っているライフワークに適した気質なんだろうと、自画自賛。(爆)
† †
さて、瀬織津姫について、今までは、下鴨さんの御手洗社の神さま‥‥という認識しかなかったわけですが、感じながら、少し調べてみることにしました。
ネットで検索して驚き!
ものすごくたくさんの人が、瀬織津姫について論じていらっしゃいました。
玉依さまとは、比較にならないくらい。
なぜかと言うと、まじめに考察なさっている方のほとんどが書いていらっしゃることには、この神はもともとアマテラス神の始祖神であるのに、隠ぺいされていた。ということ。
それゆえ、この神さまについて、多くのページをさかれているのだとわかります。
ほんま、こんな重要な位置をもっている神さまだとは、考えていなかったぞな。(笑)
箇条書きで、うまくまとめているサイト『風琳堂』さんの『瀬織津姫について』より引用させていだきますと‥‥‥。
一、水源神・滝神・川神であること。
一、皇祖神=アマテラスの祖型神であること。
一、東北においては、オシラ神(オシラサマ)やザシキワラシなどと習合する神であること。
一、神仏混淆においては、不動尊および十一面観音と習合する神であること。
一、日本の神道(神社世界)においては、大祓の神(祓戸大神)とされること。
一、三河地方においては、天白神とみなされていたこと。
一、ヤマトの中央権力側は、この神を「祟り神」「禍津日神」(悪神)とみなしていたこと。
その他、同書出版以降において新たに判明したこと、あるいは可能性が濃厚であると認められることを挙げておきますと、下記の性格事項があります。
一、桜の神であり、桜谷明神の異名をもっていること。
一、白山・立山ほかの地神・元神であること(全国にわたる祭祀がみられること)。
一、神宮においては、「アラハバキ姫」とも呼ばれる神であること。
一、京都・下鴨神社(賀茂御祖神社)においては、「糺の弁天さん」とも呼ばれる神であること。
一、日本文学の発生と根源に関わる神であること。
『風琳堂』さんのページには、瀬織津姫について、その他にも、ものすごーい量のレポートがあります。圧巻です!おすすめ。
これを元に、感じてみます。
さきの夢を見たとき、ぱっと「土」を掛けられたこととも関係がありそう。
陰陽五行をもとに‥‥。
アマテラスさんは日。瀬織津さんは水。
さらに、瀬織津さんは、アマテラス神の「荒魂」とされ、隠ぺいされた。
本来、男神であったアマテラスさんと一対で奉られるはずだった。
火と水のテーマで。
彼女の中には悲しみと怒りがある。
瀬織津さんはもちろん荒魂そのものではなくても、そういう側面があったのかもしれない。
しかし、先のツノの一件ではないけれど、荒魂というのは、単に「悪者」でも「愚者」でもない。
でも、そこに、そのようなレッテルを貼り、封じ込めた。
彼女は一度死に(かけ)、流浪する。
お、フェニックス(不死鳥)のテーマか?
そうか、わたしが帰着させる神話は、ここだ‥‥。
今まで知らなかったけれど、この神話を帰着させようという試みは、強いエネルギーがある感じ。さきの風琳堂さんなども、大きな貢献者。
わたしの場合、理屈で考えるとノーミソがパンクするので(アホですいません‥)、やっぱり体得していくしかない。
肉体と感情を通じて、帰着させる。
おおっ!まさに、彼女が封印されたソレではないか?
ちくしょう。もともと穢れのない魂だったのに!
混乱ではなく、純粋な悲しみを感じる。
そして、ここまできて、ふと、先の夢の意味が唐突にわかった!!
あの女の子は、瀬織津姫だったのではないか?
わたしは、ハンガーを彼女が振り回しているときも、それを恐れながら、彼女が美しい魂であることを「知っていた」。
それは彼女の「母親との笑ってはならぬ約束」ゆえ、彼女は、笑顔を封印していたことを、先に聞いていたからであった。
約束により封じ込まれ、彷徨っている女の子。
あれは、まさに、瀬織津姫!
先に、砂を体に振り掛けられたのだが、これは、いわゆるお浄めだろう。
神社の参拝の前に、水で口をすすいだり、また葬式のあと、玄関にはいるときに、体に塩を蒔く‥‥というような意味と同じもの。
水の女神でもある彼女と出会うために、「石」「砂」を掛ける。
別の言い方で言えば、
「石」や「砂」を掛けたときは、水の女神との邂逅を予見する。
ふうむ‥‥‥。
先日いただいたコメントで、「水と岩は同質」という言葉をいただき、非常に不可思議かつ魅力的な見解だったので、しばらくずっと考えていたが、こういうことだったのか‥‥と腑に落ちにけり。(笑)
いや、どういうことなのか‥と聞かれても、まだ言語化できないのでありますが‥(^^;)。
わたしが神話を帰着させる‥‥とは、まさにこういうことであったのだ。
わけわからんまま現実に生き、
夢次元(イメージ)で具現化し、
文章(あるいは表現)にて他に解放する。
これぞ、わたしのミッション!
なんか、ますます わけ解らなさが増大している気がしないでもございませんが、わたくしとしては、いたくいたく腑に落ちておりまする。
というか、ずっとそうやって生きてきた、そのまんまっちゅうか‥‥
わざわざMission言うのも、恥ずかしーっていうか‥‥
おっと、これを読んでしまった、あなた!
mi-keさんだから‥‥とか、mi-keさんは特別‥‥とか、間違っても思わないでいただきたい。
これは、あなたにも、起こる物語なのだ。
つまり、内的な神話を刻んで、わたしたちは、輪廻を繰り返しておるのである。
そして、その解放は、一人一人ができるようになっているはずだからである。
わたしの場合、アホアホ体質なので、認識できているに過ぎない。
別に、認識できていなくてもかまわないと、わたしは思う。
だって、それは、おそらく、わたしたちは、日常生活を通じて、内的神話を帰着させることをやっているはずであるから。
まあ、もちろん、いらぬ因果の種を新たに蒔いている可能性もなきにしもあらず‥ではあるが‥‥‥(笑)
そんなわけで、わたしの体質をおもろがって読んでいただいて「なんか、ソレわかるなあ」とか「なんかそんな感じ」とかいう部分を汲み取っていただくだけで、きっと、あなたの内なる神話の帰着を、自然とサポートしていることになっていると、なんとなく感じる。
さて、玉依さまのみならず、瀬織津さまの内的神話を抱えながら、祇園祭でますますパワーアップしてしまったわたくし、次なるワクワクテーマに向かって、レッツでござる!