ガチャン!
という音が響いて、「ごめんなさい」という小さな声。
食器棚の前で、ガラスの破片が飛び散っている。
とっさに、ボンが怪我をしていないのを見届けてホッとした。
緊急事態っぽい時は、少しドキドキしたあと、
脳が「静かに!」と、私に指令をする。
この間、およそ1秒。
私はものすごく冷静になっている。
「動かんと、じっとしてて」と、ボンに言った。
見ると、2個セットのコップの片割れ。
高くはないけど、おフランス製のお気に入りのやつだ。
私は むつっとして、
「アンタ、ほんまに雑なんよ。ていねいにしてたら、落としたりせーへんねん!」と怒り調子で、ボンを叱った。
こんなふうにボンを叱るのは、いつものことだった。
でも、、、この日は、いつもの私とは少し違った。
(あれ?)
子供に向かって放つ自分自身の言葉に、変な違和感があった。
いや、本当は、いつだって、この変な違和感はあったように思う。
(なんかおかしい…)
正当だと思っていた自分の怒りと叱責の言葉に、妙な感じを覚えて立ち止まった。
私も、2年に1度くらいは、家の皿を割ってしまうことがあるように思う。
そんな時、私は、「あーあ」と言った後は、
即座に「ええねん。代わりに、きっともっとええもんが来るはずやもん!」と開き直る。
これが、仮に、夫の場合でも、同じように、
「大丈夫、もっとええもんが来るためやから」と言えるだろうと思う。
なのに、なんで、子供には、そう言ってあげられへんのやろ?
子供の不注意は、親が「ちゃんと教育」をせなあかんから、
ここでは「叱る」のが、親として正しい行為である。
こんなふうに思い込んでいる自分の観念が見えた。
微妙な違和感はその都度あったが、(叱って当然)と、一見常識に見える思いが、心の奥の違和感を上書きしていたことに気づいた。
私は、2020年、ぜったいに直感を外さないと決めてきたのに、ものすごい抜かりが見えてきたのだった。
「子供」を例外にしていた。
あの叱責は、果たして「教育」になっているんやろか?
謝っているボンに対して、無意味に萎縮させているだけやないの?
もっと豊かな、人間味のある表現が、できるんちゃうやろか?
そんなことを思いながら、ガラスの破片を片付けた。
ボンは、しゅんとして、私の姿を、動かずにじっと目で追っている。
私は、仕上げに掃除機を掛け、ボンにも手伝わせながら、
投げやりな意味ではなく、何だかどうでもええような気がしていた。
なんちゅう 細かいことなんやろ。
よう考えたら、「で、何?」ってなくらい しょうもないこと。
ただ淡々と、ボンとふたりで片付けして、もっと気にいるコップをいっしょに探したらええだけやん。
よその家のコップを割ったんなら、すぐに謝って弁償するべきやけど、家族やのに、この程度のことで、何ていう怖い顔してるんやろ、私…。
「わざとやったんちゃうのに、怖い顔してごめん。ひょっとしたら、もっとええコップがくるために、神様が割らせたんかもしれへんのにな」
というと、ボンの表情はふっと緩む。
私は、立ちんぼになっているボンを抱きしめた。
「…ごめんごめん。これくらいこと、気にせんとき。おかあちゃんの顔、怖かったやろ?まるで番町皿屋敷やな」
というと、やっとボンはぷっと笑った。
いつかは、割れるコップ。そのうち、割れる皿。
よう考えたら、皿を割ったことくらいで、罪悪感で小さくなってしまう男なんて、魅力ないやんね。
こんな時は、「あーあ」といって、あははと笑って、さっさと新しいのに買い換えてくれる男性に育ってほしいやん。たった、それだけのことやん。
確かに、ものを大切に扱うことは大事なことやけど、
ここで、あんなふうに叱るというのは、この論点とは繋がらない。
ここで、わざわざ罪悪感を植え付ける必要なんてあるものか。
ああ、こんなことで叱らなくてええんや。
なんてっこったい!(笑)
私、もっと優しくしてあげられる。
優しいままで、やっていけるやん!
もし次に、ボンがお皿を割った時は、たぶん、
最初に、ボンが怪我をしていない姿を見届けたら、
「良かったー!怪我なくて!」と抱きしめてあげられると思う。
もう、それだけでいい。
仮に、それがお気に入りの九谷焼のものであったとしても。<ほんまか?笑
それから、あーあ…と言ったら、笑って後片付けをさせよう。
もう、それだけでええねん。
私があれこれ画策しなくても、(画策しない方が)、
彼は、学ぶべきを学んでいくだろうから。
私は、晴れ晴れとした気持ちで、うーんと伸びをしたのであった。\(^o^)/