自分の現実のことを書くのは怖い。躊躇はある。
でも、ここまでの譬え話を「実際に」置き換えたものは、体験したことが一番伝わると思う。
題して……
って、なんやねん?このタイトル ^^;
ここまで書いてきたことで、
鎖国主義って、実は、めっちゃカンタンなやり方ちゃうん?
と、思われたとしたら、それは、大正解!
要するに、尿意に気づいて、トイレに直行して、きもちいーって叫ぶくらいカンタンだってことです。
そして、これが当然の理で、それで正解。
∞
コロナ自粛のさなか、
親分(夫)が仕事を辞めると言い出した。
親分は、とある中小企業の役員をやっていて、
会社の内側のことになるから書けないけど、
彼は、ある重要事項で、ずっと尽力をしてきたのを知っているので、
その彼が、辞めるというのは、よっぽど決意してのことだと思った。
だから、当然、反対なんかしなかった。
親分は、私の心配を和らげるよう、真摯に話してくれたし、
変なハナシ、じっくりとコミュニケーションを持てる時間ができて、
むしろ、なんだか嬉しかった。
「ドキドキはするけど、ワクワクもするわ」
というと、
「ミケは、相変わらず、そういうとこすごいな」と言う親分。
何のあてもないのに、すぐに、現状を受け入れる態度がすごいと思えたらしい。
いや、私は、親分の仕事に対して、一縷の心配もない。
おそらく、本人以上に、私は心配していない。笑
「この人は、絶対、なんとでもできる人」という信頼がごっつぅある。( ̄▽ ̄)v
さらに、私には、京タロがあると思っていた。
これは京タロが、いよいよ動くから、その前触れか?とかも思った。
だから、この流れに沿って、私は動こうと考え始めて、
そのための企画を考えたりし始めた。
でも、始めかけてすぐに、
私は、おや?
おや?
おや?
と、違和感があることに気づいた。
もっと、ワクワクすると思ったのに、心が、動かない。
おかしい。
全然、気持ちが湧かない。
企画自体がイマイチなのかも?と、いろいろ練ったけれど、
しまいに、考えることそのものが苦痛に感じられて、
どうやら、方向が、全く違っていることに気づいてきた。
もちろん、たろうさんにも訊いていたよ。

絶対肯定のたろうさんは、私の本音を見つめることを示唆するばかり。
でも、そうやって、京都タロットを手に自問するうち、わかってきた。
私が、今回、動こうと思っている根っこには、
「お金の心配」が、隠れていることに気づいた。
本心で、やりたかったんじゃなくて、
お金が心配だったから、「やらなくてはいけない」と考えていたんだとわかった。
先ほど書いた「流れに沿っているから」というのは、実は本心の動機ではなく、
方便のようなもので、「頭で考えた」動機だった。
長年、京タロさんと付き合ってきた私がマスターしていることは、
こういう小さな違和感を放置しないということ。
焦燥感、無価値観、罪悪感、心配、、、
だれもが抱きがちのこれらの感覚(違和感)を放置しないということは、
これらの感覚を、行動の動機にしないってことなのだ。
これは、今までの教えられてきた常識と真逆のことだけど、
京タロさんは、今までから「動機こそ肝心」だと、何度も突きつけてくれていたので、
おかげで、いつのまにか、感覚が変わってしまっていた。
動機こそ肝心、なんていうと、
動機が崇高なものでないといけないと、考えてしまうかもしれない。
でも、そういうわけでは全くなくて、
動機(本心)を、自覚せよ!
ということ。
私は、このとき、やっと、自分の本当の動機が「心配」「焦燥感」であることを発見できたのだ。
同じ、「お金」が動機であったとしても、
それが「お金儲け」したくて、ワクワクしているのなら、
むしろ、問題ないだろう。笑
心配からか、前向きな欲望なのか?
この小さな差は、実は、大きな差 なんやと思う。
後者の「お金」は、自分の本心と一体なので、
ストップしなくていい。
そうであるならば、そのままワクワクしながらはじめれば、ええんです。
きっとうまくいくし、大抵のことは、乗り越えられるようになっている。
でも、心配から行動する場合、
その後の行為事態に心配フィルターが掛かってしまうので、
重みが乗っかってくるから、スムーズにいかなくてしんどくなる。
そんなわけで、
内なる鎖国令を発動させたことで、外側の事象に翻弄されることなく、
内なる動きを注視するようになった結果、
心配発の動機に気づき、「いったん止まれ」をした私は、
改めて、自分に訊ねてみたのである。