この前、投稿したエジプト神話のオシリスとイシス物語。この二神は、夫婦神でありながら兄妹神。
兄弟姉妹の神々が仲違いしたり、仲直りしたり、時には結婚もしてしまう…というのは、世界の神話『あるある』だ。
ちなみに、ひな祭りのお内裏さまはスサノオノミコト、お雛さまはアマテラスオオミカミが起源。
この二神は日本神話の中でも、特に有名な姉弟神。ということは、お内裏さまとお雛様は、もともと夫婦ではなかった!…という、これって、ちょっと衝撃のトリビアではございませんか? 笑
他にも、兄弟姉妹神の交わりの物語といえば思い浮かぶものがいくつかあって、代表的な神話の一つがカインとアベルの物語。二人は兄弟で、かのアダムとイブの息子たち。兄カインは、弟アベルを殺し、人類最初の殺人や嘘をついた人とされる。
これらの物語からも「兄弟姉妹」神の意味が象徴的に見えてくる気がする。単純に、どの神が裏切り者で、どの神が正当なのかが問われているとは、私には思われない。
兄弟姉妹の神は、「同じ一つの神から生まれ出た」ことをわかりやすく表している。神話において、兄弟姉妹の神々は、それぞれ、正邪、善悪、美醜など両極の質と性格を担った神として個性的に描かれることが多い(もちろん、仲良しの兄弟神の話もあるよ)。これは、いかなる性質も、その根源が同一ということを謳っているのだと感じる。
その視点に立って、ようやく人間側に洞察の余地が出てくるのではないか。
とは言っても、ここからは、「この世の物事、事象、性質は、全て二元性で成り立って、その根源は創造の聖なる作用」という、巷によくある解釈しかないのだけれど。
そのよくある解釈の元になるのが、兄弟姉妹神話で、彼らの奇想天外な物語性こそ、本質的な地上世界の歓びを物語っているのだろうと思う。
聖俗カラフルなこの世というのが神話的な大前提なので、悪だからって、俗だからって、邪だからって、それを締め出すだけではなくならない。無くそうったって、そうは行かぬのだ。なにしろ、地上の創造は、同時に両極を生み出すのだから。
私は、長年、神話的な夢見のシンボリズムばかりをしつっこく検証してきたので、ひしひしと感じるのだけれど、それらの「忌むべきもの」というレッテルを貼られた人の質は、どんなに逃げても避けても「ある」。逃げるほどに、そいつは目につく。この忌むべき質とどう対峙するかが、世界の宗教の元ちゃうやろか。向き合うのか?戦うのか?受け入れるのか?
「なにしろ地上は聖俗カラフル」
私の解決法は、そうつぶやくだけ。そういうものなら、そういうものなのだと、ただただ思うだけ。その上で、自分の中に見つけた「それ」と、自分の中で解決する。見ないふりなんかしない。「カラフルだから、面白い」とうそぶいてみる。笑
そして、自分の中で、ちゃんとチャンバラさせてあげる。「大っ嫌いっ、叩っ斬ってやる〜!」と(笑)。人間の脳みそなら、自己完結できる。そのための、人間。そのための、考える葦。