前々回の投稿からの続き。
「たろう」とは、日本の男の子を象徴する名前として、あまりにも馴染み深い名称だろう。
桃太郎、金太郎、浦島太郎…、どこかのスマホ会社のコマーシャルに勢ぞろいしているが、テレビCMで扱われるくらい、この三人の少年を知らない日本人はいない。
日本人の共通認識、つまり、これがユングのいっている「民族的無意識」の領域に繋がっていく。
たとえば、夢の中で桃太郎が出て来たら、幸運な偶然や、勝算とか好戦的な状況だとかを意味するだろう。もちろん文脈にもよるが、おおかたの場合、好機を意味する吉夢だといえる。
金太郎や、浦島太郎についても、おおまかに言えば、同じカテゴリに属する。
「聖なる少年」
そう、たろうさんとは「聖なる少年性」を意味する。
日本人にとって、力太郎とか三年寝太郎…など、物語上の「〇〇太郎」というのは、のちのちヒーローに大変身を遂げる男の子であることを予感させる名前なのだね。
聖なる少年性…とはなんだろう?
聖なる少年を、たろうさんの精霊と位置付けると、『京都タロット』というものが浮かび上がってくる感じが起こると思う。二十二枚の大アルカナの物語も、自然と生まれてくるようだ。
京都タロットという物語は、たしかに「私」が書いたけれど、でも、どこか、私ではないような気持ちがあるのは、これは、私の「考え」によって書いたものではないから。……この説明は、なぜかちょっと難しい。
たろうという少年が浮かび上がった後、彼の物語をいかに展開させるかについては、わりと簡単だった気がする。
静かな水面に水滴を落とした時、自然と波紋が広がる、その波紋の形を映し取ったような感覚がある。……ちょっと、かっこつけた言い方ですが。😅
「聖なる…」との枕詞は、その「原型」という意味。この物語上に登場したばかりの少年の原型。
前の投稿でも書いたけれど、その存在は、まだまだ不安定でありながら、あらゆる可能性、無限の可能性を潜在させている。
私は、京都タロットに棲む精霊に、そんな「たろう」という若者の姿をイメージした。
続く…