三毛猫を飼っている。名前はひなこ。今年で十になる。
ふわふわした柔らかいロン毛の愛らしい女の子で、家族の、とりわけ長女の、癒しのパートナーである。娘は、親には見せない甘い顔をして、ひなこを可愛がる。
冬は、リビングの大ちゃぶ台の下が、ひなこのお気に入りで、私が足を伸ばすと、ひざ掛けの毛布を、悦に入って「ふみふみ」してくる。
本当のことを言えば、幼い頃から犬猫が怖くて、本来なら、可愛いはずの「ふみふみ」の時も、私はさっと足を引いてしまうことが多い。
猫缶を彼女にあげるのも、いまだにちょっと苦手。缶の蓋をあける音がすると、ひなこは跳んでやってきて、私の足元に身をくねらせて甘えてくるが、私は、反射的に、くっと身を固くする。
そんな私を、怪訝そうに長女が見る。
思えば、実家の大人たちは、皆、猫嫌いだった。当時、実家の周囲は野良猫が多くて、猫を見かけるだけでも、父母らは「しっ!」と追い払っていた。私は、そのことに、なんの疑問も持たなかった。
猫は、当時の家族にとって、ガレージや大事な畑に、くさい糞をする不届き者。さらに、大切に育てていたヒヨコを食い殺したこともある悪者でもあった。
だから、彼らが愛らしい存在であるとは、結婚するまで、一度も考えたことがなかったのだ。
新婚時代のこと。夫の実家の2階でくつろいでいる時だった。
開け放した窓の外のベランダに、一匹の野良猫が通った。私は、‘いつものように’ 「ししっ!」と手の甲で猫を払う仕草をした。それを見た夫は、ぎょっとした表情で、
「え?なんで?!(この猫は)何も悪いことしとらんやん?」と言った。
確かに。
この時、初めて、私は「そういう考え方」を知った。
私は、猫と和解した。
その後、積極的に関わるところまではいかないが、猫が可愛いと思えるようになり、十年前には縁あって、ひなこがうちにやってきた。
スコティッシュフォールドという、愛玩用の、おっとりした、優しい、手のかからない育てやすい種。
私は、ドキドキしながらも、のどを撫でることを覚え、脇を抱えて持ち上げ、時々、猫語で挨拶を交わす。
しかし、実のところ、いまだ完全に、彼女に安堵することはなくて、内心怯えていることには変わりない。犬猫に対する恐怖心は、ひなこのおかげでずいぶんと和らいだとはいえ、これは、幼少期のトラウマというか、刷り込みなので、どうしようもない面があるのはわかってほしい。
ひなこは、私が仕事をしていると、たいていは周囲でゴロゴロと寝ている。
でも、必要以上に、私に関わっては来ない。「そっとしておいてくれている」ように感じる。
しかし、私の方はちょっと違って、彼女を「そっとしておいてあげている」わけではなく、単に関わらないだけなのだ。
私は、彼女の大きさを感じる。無条件に受け入れ、気楽に、私を愛してくれている大らかさ感じる。しかし、それがわかっていてもなお、警戒心が解けない自分の狭量な冷たさが申し訳なくて、「怖がってごめんな」と言わなかった日はない。