(先ほどの、続きです)

タロットと名付けたからには、西洋タロットとの、ある程度の対応はあって然りだが、寸分違わず対応させられるわけはないし、だいたい、そんな必要はまったくない。
西洋タロットを踏襲しているところは、あくまでも「ざっくりと」合わせるに留めて、京都タロットならではのプロットと性質のものこそが要であったはずなのだ。
だから、先の記事に書いたような「古代西洋コインpentacleは、日本古代コインとしての稲穂」などという解釈は、むしろ観念的であったのだと気づいた。
この当たり前のことを、改めて「今」ちゃんと認識していることが、必要なのだと思った。
それができていなかったから、薄ぼんやりした不安感を抱えたまま、ただ前に進もうとしていることに、私の内奥が
(怖いよ怖いよ〜間違っているかもしれないよ〜)と、反応していたのだ。
さらに次に続く…