夫が、「帰ってきよったな。うるさい軽自動車」と言う。
夕方になると、遠いところから、近隣の青年の帰宅を知らせるエンジン音が聞こえてくる。
夫によると、車のマフラーに細工がされているらしく、そのせいで朝夕うるさいそうだ。
実は、夫が、そのことを指摘するまで、私は轟音に気づかなかった。
いや、指摘してからも、私には、そのエンジン音はほとんど耳に入らない。言われなきゃわからないのだ。
要するに、私にとって、その軽自動車は「ないのと一緒」。
逆のこともある。
うちの裏のマンションから、中学生くらいの娘が、親に反抗しているような大声が、よく聞こえていたことがあった。
「なんでわかってくれへんのよー!」とか
「ママは怒ってばかりやー!」とか。
時には、ギャン泣きしながら訴えているような娘の声が気になってしまい、通報ギリギリやな……と苦笑することもたびたびあった。
それを夫に話したところ、全く知らないという。
え?あんなに大声なのに?
と、びっくり。
一度、まさにそれが始まった時に、窓を開けて、
「ほらほら、どこかのお嬢が泣き叫んでやはるやろ?」と伝えると、
「うーん、言われてみればそうかも。ほんまに女の子かな?小学生くらいのボンに聞こえるけどな」などと言う。
いやいや、どう考えても、あれは中学女子ちゃう?
と、私。
夫にとって、その娘は「いないのと一緒」なのだ。
何が、聞こえるか、聞こえないか。
何を、拾うか、拾わないか。
好きなものはもちろん、拾う。
しかし、好きじゃないもの(嫌いなもの)も、また拾う。
そう思うと、人は、自分が気になるものしか拾わない。
実は、「好き」と「嫌い」は、人の‘無意識’にとって等価。
顕在的な意識にとっては、好きと嫌い は、別のカテゴリーに分けてしまうものだが、無意識にとっては「好悪」という同ジャンルなのだ。
このことは、「好悪」は「わたし」というキャラクターを際立たせてくれるファクターとして、別個としてではなく、同列として考えるようにすると、すごくスッキリしてくると思える。
好悪について、感情的な反応にとどまるのではなく、感情的な「反応」自体を大切にすると、「わたし」という個が見える。
それは、無意識を、意識化させる試み。