ミケ的奇想 vol.1

2003年~2022年3月のアーカイブ

聞こえる 聞こえない

夫が、「帰ってきよったな。うるさい軽自動車」と言う。

 

夕方になると、遠いところから、近隣の青年の帰宅を知らせるエンジン音が聞こえてくる。

夫によると、車のマフラーに細工がされているらしく、そのせいで朝夕うるさいそうだ。

 

実は、夫が、そのことを指摘するまで、私は轟音に気づかなかった。

いや、指摘してからも、私には、そのエンジン音はほとんど耳に入らない。言われなきゃわからないのだ。

要するに、私にとって、その軽自動車は「ないのと一緒」。

 

 

 逆のこともある。

 

うちの裏のマンションから、中学生くらいの娘が、親に反抗しているような大声が、よく聞こえていたことがあった。

 

「なんでわかってくれへんのよー!」とか

「ママは怒ってばかりやー!」とか。

 

時には、ギャン泣きしながら訴えているような娘の声が気になってしまい、通報ギリギリやな……と苦笑することもたびたびあった。

 

それを夫に話したところ、全く知らないという。

 

え?あんなに大声なのに?

と、びっくり。

 

一度、まさにそれが始まった時に、窓を開けて、

「ほらほら、どこかのお嬢が泣き叫んでやはるやろ?」と伝えると、

 

「うーん、言われてみればそうかも。ほんまに女の子かな?小学生くらいのボンに聞こえるけどな」などと言う。

 

いやいや、どう考えても、あれは中学女子ちゃう?

 

と、私。

 

夫にとって、その娘は「いないのと一緒」なのだ。

 

 

何が、聞こえるか、聞こえないか。

何を、拾うか、拾わないか。

 

 

好きなものはもちろん、拾う。

 

しかし、好きじゃないもの(嫌いなもの)も、また拾う。

 

そう思うと、人は、自分が気になるものしか拾わない。

 

実は、「好き」と「嫌い」は、人の‘無意識’にとって等価。

顕在的な意識にとっては、好きと嫌い は、別のカテゴリーに分けてしまうものだが、無意識にとっては「好悪」という同ジャンルなのだ。

 

このことは、「好悪」は「わたし」というキャラクターを際立たせてくれるファクターとして、別個としてではなく、同列として考えるようにすると、すごくスッキリしてくると思える。

 

好悪について、感情的な反応にとどまるのではなく、感情的な「反応」自体を大切にすると、「わたし」という個が見える。

それは、無意識を、意識化させる試み。

 

 

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