前回アップした夢のことをちょっと考えてみました。
主体を「風鈴」に置くことは、逆コペルニクス的転換。
コペルニクス的転換と言えば、大々的な認識の転換のことをいうけれど、夢見を探って解いてゆくことは、地動説だけではなく天動説的観点をも考え合わせないといけないように考えています。
死を覚悟して地動説を唱えたコペルニクスを、私は生き方として尊敬していまして、それは絶対必要な過程であったと信じてはいますが、実際のところ、地動説は、宇宙の見方のすべてとは思えないのです。
もちろん、地動説は、確かに本当のことです。
しかし、もう一つの現実として、目には明らかではないけれど、天動説的真実というのも宇宙の在り方の一つとしてあるのではないでしょうか。
うまく言えないけれど……わたしはそう信じているのです。
天動説というのは、「自分」をすべての中心として、それを包括するのが「宇宙」というとらえ方です。宇宙と自分は切り離されたものではなく、太陽や月や星々と「個人的」な付き合いをしているという視点に気づかされないでしょうか?
「自分を中心」というと自己チューだというのは短絡的で、わたしは自己チューとは、むしろ地動説からやってきたように思えます。
地動説が導く客観視は、自分が宇宙から分離した単独の存在であるという視野に傾きがちではないでしょうか。そこにはつながりのうるおいがなくて、無味乾燥な世界に思えてしまいます。地動説だけに偏ると、孤独という幻想にとらわれ、それが自己チューを生む。
自分が中心となる天動説を自分のものの見方に据えることは、みずからの中の神性を蘇らせることにもつながるような気がするのですけど、どうなんでしょう?
かといって、天動説のみを信奉するのももちろん可笑しな話ですよね。天動説というのは、自分がいなくては世界は存在し得ない宇宙観ですが、地動説は「私はいない、それでも地球は回る」という、とことん客観的な正論です。
これからは天動説を復古するだけではなく、地動説だけではなく、その両方を自分の中で採用するような何かを、自分の中に据えたいわけなのです。
天(宇宙)は自分を中心に回り、地(わたし)自身もまた回っている──。
それは、固定的なものの見方を越えてゆく。
すべてはめぐる。まわる、まわる‥‥関わり合いながら、まわっている。
そこには、宇宙から活かされている「わたし」がいると同時に、わたし自身も「宇宙」に影響を与えている何者かであることに気づくような。
風が吹いて風鈴をゆらし音色を奏でる‥‥というだけでは、夢見の味わいの半分にしかすぎません。
わたしは風鈴にもなり、風にもなり、それを同時に見て体験する何者かです。
風鈴が鳴る……
それは、単なる物理現象を越えた、妙なる摂理の音色であるのでした。