小中学校時代の友人Mちゃんらと、何かを作ることになっていて、わたしも仕事を頼まれる。
ぜんぜん手を付けていなかったので、期限ギリギリになってあわててやろうとすると、パソコンの液晶の部分がなくなっている。
Mちゃんがすでに知っているふうで、それを黙っていたことに、わたしはものすごく腹を立てている。
「仕事でも使っているのに!」とすごくすごく怒って、怒りながら目が醒めた。
【My Feeling & Reading】
Mちゃんは、当時のお笑い系の人気者。
パソコンは、現在のわたしの仕事やその他の生きてゆく表現ツール。
期限ギリギリは、いつもわたしが自分に対してそう思っていること。
ギリギリになって追い詰めないと気持ちがわかない。
でも、このパターンもいいかげんやめたい。
あとは、この夢をきっかけに、感情について、じっくり考えてみた。
ものすごく腹をたてて怒って起きたけれど、夢であれほど怒りを感じるということに、なんというか新鮮さ、みたいなもんを感じる。
夢という幻想で、声を立てて笑ったり、腸が煮えくり返ったりすることって、思えば不思議。
すべての感情は、自分で沸き立たせていて、実は全部幻想なんだってことの現れ。
うーん、不思議だ。実にマジカルですね、感情って。
マイナスの感情なんて、意識的には味わいたいなんて思っているはずないのに、夢という自由の領域でさえ、「わたし」は、それを起こさせる状況を作っている。
つまり、どう考えても、自分がそうしたいから、そうしている。
あるいは、夢という無意識においてコントロールしているもの(=高次の存在)が関与していると仮定すれば、彼らがそれを「味わわせている」とも言えるわけですね。
そういう観点で感情というシンボリズムをじっと見てみると、何かしらの意図を感じるわけです。感情そのものに。感情を味わうことに。
たぶん、それは、翻弄されるべきものではなくて、味わうもの。流すもの。
「感情のコントロール」とはよく言われることですが、そうやって考えると、それは抑制できる種類のものではないのですね。
だって、それは「なんらかの理由により」それを味わうことを求められているわけなので。
感情のコントロールというものがありえるとすれば、それを抑制しようとするのではなくて、沸き起ってきた感情を、そのまんま、生で感じきること。
感じきることを抑えないことが、感情のコントロール‥という意味だと思います。
感じきるといっても、単に垂れ流していては、それはふつーにエネルギー浪費しているだけなので、いつまでも堂々回りの状態になってしまう。
ただただ、意識をはっきりすっきりクリアにして、喜怒哀楽を、リアルに味わう。
歓喜ののぼせるような感じとか、腸を震わせえる怒りとか、胸の締めつけられるような哀しみとか、とにかく、そのまんまをじっくりと全身に通すこと。
たぶん、人間って、難しいことをしなくてもいい ような気がする。
ふつうに、人間活動をしていれば、すっすっす‥‥と魂のカリキュラムが始動する。
何も、特別なものはいらないと思う。
感情が、そのまま、カリキュラムなんですから。
それを、ありがたい薬のように飲むだけ。それだけでいい。
お金もかからないし、それは、あなただけのオリジナルだし、あなただけのために処方された特効薬みたいなもの。
人がわざわざ難しいと思い込んで、難しくしているだけ。
本来は、簡単。