タロットを作る という作業は、
ひょっとしたら、概念化ではないか? と思われるかもしれない。
たしかに、そのように作る人も、いるのかもしれない。
(まあ、一概に、それがダメだとも思わないし)
ただし、京都タロット場合は、ちょっと違う。
仮説として、考えてみてほしい。
仮に、目に見えぬ女神がいるとして、
彼女たちが、私たちの「内」に生きることで、
報われなかった物語を成就させようとしている……。
そういうことが、ありえるとしたら、
私たちは、知らず知らずのうちに、導管になってしまっていた??
と、考えることができます。
京都タロットは、この仮説を「地」でいきます。😉
知らず知らずに、振り回されるのではなく、
私たちの内に流すのですね。
きちんと。
意識的に。
その時、はじめてわかるのです。
うちに流れている、その動き自体が、エクスタシィであるということを。
感覚を研ぎ澄ませば、(これは、ただじっと意識を自分に向けるだけ)、
何かが喜んでいるのが、感じられます。
この時の 喜びが、女神のもの。
この歓喜・至福感のエネルギーを、
人間の地上世界では、女神 と呼んでいるのかもしれない。
エネルギーの種類に、価値判断をしているのは、ヒトの了見でありますが、
ヒトの了見から、ちょっと手を放して、
ただ、物語が流れるのを感じてみると、
どんな種類の流れであれ、共にいて、、、
すると、
生命のダイナミズムを、直に 感じるだけでいいのだとわかってくるのです。
無意識に、出来事に、一喜一憂している頃とは違って、
喜んで 差し出し、
物語を 成就 してさしあげる。(←この言い方よ…。笑)
動かされることの面白さ。
動かないことの静寂さ。
だから、京都タロットのカードからの啓示とは、
どのような物語が、今、通過しているのかを感じます。
そして、
何が出ても、絶対肯定できると、
すべてを、面白さと静寂さを内包したエクスタシィとして捉えられ、
力強く、ゆるがなく、なれるでしょう。
(いや、なったよ。( ̄▽ ̄) けちょんけちょんに言われてても)
なぜかって、
その在り方によって、
私たちは、
何者でもない「わたし」に触れることができるから。
いや、触れるどころか、それそのものなんですから。