10時くらいまでぐっすり眠っていたのだが、隣室で娘が自作の歌を歌いまくっている大声で起こされた。 まどろみも許されず、横たわる私の上にドカっとのしかかってきた鈴は、「なあ、ママ‥今日は何の夢見た?」と聞いてくる。
「忘れたわ‥‥ほんなん鈴が急に乗ってくるんやもん。忘れるわ」と文句を言った。 「ごめんごめん。うちな〜、『うれしい、さみしい』で泣きながら目が覚めたんやで」と言う。
「‥うちとママは、夢の中で目が覚めてな、元の世界に帰るねん。でもパパは夢の世界の人やから、夢の中でバイバイせなあかんねん。ほんで、うれしいのとさみしいので泣きながら目が覚めてん」
「元の世界に帰るのが『うれしい』で、パパとバイバイするのが『さみしい』っていうことなん?」
「そう、そうやねん」 これが昨日までの私に聞かされた夢なら、私はまた自分の怖れの反映だと、少しナーバスな解釈をしたであろうが、今はちょっと違う。
「私達は、怖れを越えて、繋がっている」
もっとも近くにいる家族は、最も強いエネルギー的な影響を与え合い、現実とともに、夢の世界でも同時に生きているのである。
夢でさえ「共有」していたことが嬉しいと感じる。それがたとえ怖れであっても。繋がりがなければ、そもそも同じ感傷を抱くことなどできないのだから。