ミケ的奇想 vol.1

2003年~2022年3月のアーカイブ

シンプルな気づき(探究の終わりについてのつれづれ5)

探究の終わりについて、(だれにも頼まれていないのに…笑)思いつくままに書いているシリーズ。 あと2回ほどで、現段階で思いつくことは、とりあえず終了できると思う。^^ どなたかの探究生活の一助になれれば、とてもうれしいです。こんなこと言っては不遜ではあるが、このブログ、早く終わりたくてしょうがない。(^^;) 人に頼まれたわけではないので、尻切れとんぼであっても、どなたにもご迷惑はお掛けしないわけですが(笑)、にもかかわらず、私は、これを書きあげ、悔いなく終わりたい…と考えている。

今回は、衝撃の気づきとシンプルな気づきと気づかない気づき ということについて。

Pさんとのやりとりの中で、ときどき話題となることが、先日のブログ記事でもお話されているように、

「認識のシフト時や、その後の過程において、何も衝撃的な体験や変化を感じることなく、そういえば気がついたら変わっていた・・・という人も少なくないようだ。」

ということ。

これからはドンドンとこういう人達が増えて、世界の雰囲気が変わっていくのではないかと思っている。

幼い子ども達を見ていると、ときどき「この子ら、知っとるなあ」と感じることがある。子供らとの触れ合いの中で、自分の幼い頃を重ね合わせて、「わかっていた」感覚が蘇ってくる人もいるのではないだろうか。私も、チビと遊んでいると、周囲の現象と自分を分けていなかった頃の、寛容でクリアな感覚をふと思い出すことがある。

現実に揉まれているうちに、しだいに忘れてしまうのだが、それでも、まだティーンエイジャーの頃は、そのはざまで、揺れ動く。

高校3年の長女などは、お年頃でもあるし、私がこういう類の話をすると、どちらかと言えば、うっとおしそうな顔をするナマイキなコムスメで、「そんなんはええし、こっちの問題を解いてくれ」という感じではある。彼女の「そんなんはええし」というのは、「そんなんはわかっている」ということで、それが現実的な解決とつながっていなかったら、「ママってアホちゃう?」になるわけである。それでいい。まったく健全に育っていて、ママは安心。(笑)

幼い頃、父と母は世界で一番賢くて何でも知っていると思っていた。それが、父も母もフツウで十人並み(笑)ということを、ティーンエージャーの頃には「知っていた」。(まあ、「十人並み」であっても、子供にとって父と母はいろんな意味で「特別」ではあるよ、もちろん)

サンタクロースの存在も然り。いつのまにか美しいファンタジーから覚めていた。(現在は、ボンのためにファンタジーを作ってあげているが)同じように、世界の(=自分の)在り方と理解についても、「いつのまにか」ということは、ひょっとしたら、よくあることかもしれない。

その人にとって、至極当たり前のことなら、わざわざ人に言わないので、「いつのまにか、気づいている」ことは、ある意味、門外不出である。(笑) そして、山あり谷ありの人生であったとしても、日々満たされて過ごしているということは、全くありえる。だれにも知られず。

気づき後、一夜にして性格や性質の大転換が起こる場合の方が、実際はずっと少ないのかもしれない。

また、その逆で、気づきによって性格がガラリと変わってしまう人もいる。 気づきの際、なにかの化学反応?で、至福、法悦体験があるなど感情が強く動かされてしまうと、性格?に変化をきたすことが多いような気がする。

シフトの衝撃が激しい人はしばしば、その気づきを「伝えねば!」という気持ちが生じやすいようで(←経験済み…(笑))、そういう人ほど、当然、声が大きくなるので、「悟り」に関して一般に耳に入ってくる情報というものに、一種の「傾向」が生まれているように思う。

実際は、それは単に「発見」。(厳密に言えば「再発見」)

至福感や、無上の喜びのような強い感情が伴ったりする場合以外は、発見自体は予想に反して淡々としている。認識の変化も淡々と起こる。

ところが、公で活動している人や関連の本などから、そのように聞く機会は少ないように思う。先ほど言ったように、活動しようという動機は、たいていの場合、大きな喜びと衝撃に裏づけられることで発動することが多いからだ。自然にそれを認める人は、淡々と「事実」を見るだけで、「ああ、そうか」で完結(笑)してしまうので、外への衝動が起こりにくく、それどころか元々の控え目さでもって「私なんかが…」と感じてしまう場合も多々あることが考えられ、したがって、そういうタイプの人の話を聞く機会はめったにない。

だから、前者の使命感をもった人達が複数、伝達者ならではの、ある傾向を持って伝えると、それを聞く人は、その傾向でもって「悟り」というものを捉えてしまう。聞いた人はその傾向を知らず知らずに分析して、「認識がひっくり返る≒サトリというのは、こういう出来事であるはず」というファンタジーが脳内にできあがってしまい、自分がそれにピッタリと当てはまっていないと、「これではない」という判断を下す根拠となってしまう。

だから「発見」しているにも関わらず、それを認められないという自体も起こりうる。うそみたいだけれど。

発見しても、その衝撃が薄いと「いやいや、こんなもんじゃない。まだまだだ」とか。(笑) そうやって、せっかくの発見を無視して探究道に再び舞い戻ってしまうのだ。もう、無限地獄。(^^;)

私も2度目の気づきにあたる「空観」を知ったあとは、着陸(!)をミスしてしまいかねないものがあったように思う。(笑) そんな時に、ある方(@バレバレか…(^^;))から言われた 『「知る必要があることがまだある」「まだ究極のところがわかっていない」という思考が湧いて来ているだけであって、本当は全て目の前の「これ」しかないですから…』 という言葉に、改めて本質にはっと気づき、力を抜くことができた気がする。

ああ、危なかった〜。罠にひっかかるところだったじぇ、と。(^^;)

それがわかると、衝撃があろうがなかろうが、すべては自動的に進む。(のがわかる)。洞察はその後も深まり続ける。そして、手放す。ただ見る。

「その程度の自覚じゃあ、ぜんぜん気づいていないんとちゃう?」と思う人がいたら、それはほんまにわかっていないと思う。(←ややこしい…w)

だいたい、サトリなんてユートピアが世界のどこかにあるわけではなくて、覚者に起こったという「それ」すらも、けっきょくのところ彼の「物語」の一部なのに、勝手に特別視している我々は、彼の「物語」は悟り体験で終わって、「新しい境地」に住んでいるのだと、そんな期待を抱いて彼を見上げている。……ちゃうちゃう、それも物語の一部 なんだって!(笑)

その観点でみれば、あなたの「発見」も、実際のところ物語から抜け出るわけにはいかず(解釈は変わるかもしれないが)、あなたの物語のある章にすぎないのだから、まだまだと思って探究道に戻ってしまったら、そういう解釈の物語を生きるだけのこと。

気づき なんて、「あれぇ?こんな簡単なことに、なんで気づかんかったんやー?!」というくらい単純なものなので、衝撃が薄かれど、別に何も気にしなくていい。安心してまた暮らしに戻ればいい。あとは、必要なことが、日常の中でひとつひとつ起こってくる。洞察は放っておいても、日々、じわりじわりと深まる。

(考えてみれば、このことも、発見前も後も変わりはしない…)

爆発的な衝撃を伴った気づきの場合は、それがドカーンと胸に響いているので、響いている間は余韻で楽しめて(笑)、余韻が去っても、「私は気づいちゃった人」という自己イメージを抱いていられる。時間が経って、すっかり日常に戻ったとしても、その自己イメージでその後の人生を生きることができる。

衝撃のないシンプルな気づきの場合は、目からウロコではあるけれど、一瞬「ハッ」とするくらいで終わることもあり、余韻がほとんどなくて、すぐに日常に戻れる。これは、考えてみれば、すごい利点だと思う。なぜなら爆発的衝撃を受けた人は、衝撃の余韻の間、なかなか日常に立ち戻れず、気づきの瞬間は過ぎ去っても、長いことその発見に執着し(余韻を引き摺り)、厭世的に引きこもる人も多いようだ。(私の場合も、特別厭世的にはなりはしなかったけれど、余韻(≒至福)が抜けて行くことには激しく抵抗した)

しかし、シンプルな気づきの場合、「ああ、そうだったか」…で、健全に日常に戻れる。(^_^) これは、地上に生きる人として、すごく素敵なことだが、何ぶんシンプル過ぎて、それまで本質探究をがんばってやっていた人ほど、サトリに対する幻想をあれこれ抱いている場合が多いため、「これごときをサトリとは呼ばぬ」という想念が生み出され、そっちの思考に引っ張られる。そして、まんまと元の堂々巡りの探究道に戻ってしまう。 (まあ、それもこれも含めて、全てがその人にとっての最善の招きの道ですね。^^)

(話がだいぶん飛んでしまうが) 勝手な推測だけど、特に日本人というのは、そういう気質(でしゃばらない、控え目)の人が多い気がするので、目立たず、静かに、多くに馴染んで暮らしている場合が多数だと思う。 そして、このこともまた、丸い地球の、この小さな島の上の現象として、理に適っているのかもしれない、などと思える。日本からの発信というのは、天に(外に)向けて発信するものではなく、地に響かせるような類のもので、大声を上げるより、自らの内へ内へこもり、沈黙することで、ひたひたと目に見えぬものが伝播する。そうやって、声に出さない 何か で世界が知らず知らず「ジャパナイズ」されていく。

こんな書き方をすると、一見、ザ・ニッポン神聖視的ナショナリズムの論かと誤解を受けそうだが、そうではなくて、これは世界を巡るの精神の「循環」の役割の話。葉っぱは光合成をして二酸化炭素と酸素に還る…みたいな。

日本もまた、世界中のものを受信する。そして一種の「アメリカンナイズ」されていく。またそれらを自分ら流に変換させ、それが地面に浸透して、地球の裏≒世界に送られるのだ。そうやって、グルグル循環させて、地球の精神というか魂の何かは動き続けているのではないかと。

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