ミケ的奇想 vol.1

2003年~2022年3月のアーカイブ

そぼ降る雨と雑司ヶ谷1、夏目少年にアダシノを想う

雑司ヶ谷墓地は、まるで演出しているかのように、ええ感じで雨に煙っておりました。 さっそくガードマンのおじさんに夏目漱石泉鏡花の墓標を尋ねると、案内図を広げて「永井荷風でしたっけ?」と聞くので、「永井荷風(のお墓)もあるの?」と覗き込むと、その案内図は教科書に名を連ねるかつての文化人の名前がぎっしり書き込まれていました。管理事務所が作成したようです。 「これは、どこに行けばいただけますか?」と尋ねると、ガードマンさんは「まだあるから」と手に持っているものをそのままくださいました。

雑司ヶ谷霊園、明治7年開設ですって。すでにそれまでから墓地であったようです。京都でいう化野や鳥辺野などと同じような場所だったのでしょうか?「ぞうしがや」という響きが、大昔の鳥葬の地を感じさせるものがありますね。京都タロットでは、12番をアダシノ(化野)と名付けています。

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 12番は、西洋タロットのThe Hanged Man「吊るされた男」に対応しています。膠着状態、にっちもさっちも行かないという状況が表されていますが、アダシノでは、「その下で育まれているもの」という含みを持たせています。

この絵の少年は両親を亡くして呆然としています。心は空虚そのものです。しかし、その彼の意識下で進行しているものは、とても偉大なものです。言ってしまえば、王者の素養。あ、漱石先生も、母親が高齢であったためか、里子に出されたり、その先でさらに養子に出されたりと、大人の事情に振り回される幼少期でした。 いつも漠然とした一寸先の不安を感じている少年であったかもしれません。しかし、おそらくは、その経験が、彼を自由にし、強くしたのは確かだろうと思うのです。

漱石さんは44の時、文部省からの博士号の授与を辞退し、当時波紋を呼んだそうです。それは、政府への反抗の現れでしたが、これを自らの意思で決行できたのは、幼少期の不遇時代に培った強さであり、自由な精神だったのではないでしょうか。頼るべきものが頼りないことは怖いことですが、それゆえに、誰にも寄りかからない自由の精神というのは育まれ得るのだと、私は思います。 博士号という華々しい名誉(特に昔は授与者もずっと少なかったでしょうから)より、「ただの作家」であることを選んだ彼は、今でこそ、なんて自由で、なんて立派なんだと理解できますが、当時は「アホちゃうか」と言われていたはずです。博士号があっても作家活動は続けていけたでしょうし。

アダシノにおいて、しゃれこうべに腰掛ける虚ろな眼差しの少年に、その瞬間の絶望と空虚を語らせながら、彼の心奥において育まれているものに思いを馳せよと、私は伝えたかったのです。 夏目少年をはじめ、多くの不遇の人々の死(と言っても精神的な死)の下で進行している、偉大で崇高な何かを、アダシノの中に、私は込めたかったのです。一見、そのようには見えなくても。

そんなわけで、夏目漱石さんのお墓。立派です。この墓地で最も目立っている大きなお墓の一つです。

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 すでに花が手向けられていました。 まずは、「ここ」に来たかったのですね、私。 手を合わせて、振り返ると、女子大生風の女性と入れ違いになりました。 お互い、軽く会釈をする程度でしたが、お墓参りにまで来るとは「そこの若いの、偉いのぉ」と、思わず心で申し上げてしまいましたよ。笑 ひょっとして、雨が降っていなかったら、漱石先生のお墓には、お参りをするお若い女性が列をなしていたりして…それはないか。

まずは、ここで一区切り。…この調子でいったら一ヶ月くらいかかりそうなので、次回からは、もうちょっとスピードアップしたい。

 

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