ミケ的奇想 vol.1

2003年~2022年3月のアーカイブ

猫天使の愛と憂鬱

 11月のはじめより、猫を飼っている。  ミケなんてペンネームをつけておきながら、正直に言えば、わたしはイヌやネコの小動物が極めて苦手であった。わが家に猫がいるなんて、一年前の自分からは想像すらできなかった。    こんなわたしだが、わが家の一員として猫娘を迎えることになると、可愛くてしかたがない、と感じるようになった。慣れないヘタレ猫ママのミケさん、お世話でジタバタしながら年は暮れていく。    先日、まだ年若いこの猫娘に、いわゆる‘さかり’がきた。彼女にとっても、はじめての体験。  今後もずっと、家猫としてそばにいてほしいと願っているわたしは、繁殖させるつもりはなくて、だから彼女に殿方を紹介することはこの先ない。  しかし、ごはんもほとんど口にせず、わが身に何が起こっているか理解できぬまま身をよじることしかできない彼女を見ていると、何とも切ない気持ちになる。  猫の発情は、本来季節のものらしいけれど、最初はまだ安定しないので、早々に次の発情がくることがあるらしい…。  その通り、2週間経たない間に、またもさかりを迎えたわが家のニャンちゃん。机の角に顔を強く押し付けて、その場をしのごうともがく彼女。あげくに猫のバランス装置でもあるヒゲがひっかかってポロリと抜け落ちた…。  何とかしなければ!  満たされない欲情を抱えていることは、猫ちゃんには大きなストレス。繁殖が存在意義の大きな柱でもあるニャンコにとって、発情そのものが、人間のものとは著しく違う。彼女に激しい消耗を与えているのは明らかだった。    クリスマスイブだったが、この日しか獣医さんの日程が空いていないということで、慌てて避妊手術を決行した。  手術が無事終わると、麻酔から目覚めたということで面会に赴いた。   ………  …わたしは、このときのニャンコの姿を、一生忘れることはできないだろう。  積み重ねられた檻の一つに、彼女はただじっと座っていた。周囲の犬の鳴き声に怯え、痛みに耐えながら、小さく震え続けていた。そのいたいけで哀れな姿に、小学生の娘は、耐え切れずに泣き出した。  もちろん獣医さんが悪いわけでも、動物病院が悪いわけでもない。彼らは、ご自身の仕事を誠実にやってくれただけだ。  わたしは、人間の業(ごう)を、あの無垢な存在に見せつけられうろたえたのだ。わたしは、「わたし」の業に直面させられ、言葉を失った。  汚いコトバで申し訳ないが、ヘドが出る。  人間という愚に。わたしという嘘つきに。  なにが、癒されてカワイイだぁ!?ほざけろよ、オレ。このコがどんな悪いことをしたというのか?    猫娘のいない部屋に戻り、今頃、あの小さな檻の中で、再び迎えにきてもらえるかどうかもわからないまま震えているのだと思うと辛かった。  とてもクリスマスどころの気分にはなれなかった。娘の方も疲れが出たのか発熱したようで、頭が痛いと言って何も食べずに横になった。   猫の親元でもある姐さんに電話を掛けた。この一日の報告と、今の混乱と。  3時間くらい話したかもしれない。(姐さんのクリスマスイブをまるまる電話でつぶしてしまった……m( )m)    3ニャンの猫ママでもある姐さんは、この愚を何よりも知っている。何度もこのシーンを目の当たりにしていても、泣かないで済むことは一度もないと言った。  術後の彼らの姿は、一番見たくないものだけど、絶対そこから逃げてはいけない──そこから目をそらしてはいけない──猫といっしょに暮らすということ、ひいては人間が生きるということまで、モノを話せぬ彼らからしか学べないことは、あの瞬間に凝縮されているから──と。  今年のクリスマスイブ。結局、この日の晩はぶっ倒れたように眠った。  そして翌朝のこと。  わたしはこの件に関して、思索の果てまで泳ぎ切った爽快感と諦観である意味、どこか生まれ変わったような気持ちになっていた。  おそらく、何を選択したところで、すべてはわたしのエゴだろう。良かれと思ってやっていることさえ、いや、良かれと思っているからこそ、それがエゴにほかならないことに気づけない。  そう、すべては人間の(わたしの)エゴ。   …飼い猫の話をしているのではない。  わたしは、このことを猫の存在により知った。彼女がいなければわからなかった。  すべては人間の(わたしの)言い訳。  …飼い猫の話をしているのではない。  生命にとって、最も欠くべからざるはずの感受性を失ったまま、わたし達はこぶしを振り上げ、善を振りかざしているという愚を。  わたしは神が何者かは知らない。世界が本当に愛で動いているのか確信がない。ただ、こんなエゴイストな人間(わたし)であっても、しかし「翌朝」がやってきてくれること──これは愛に他ならない。  わかってくれますか?  わたし達は、愚かな人間であるということを外しては生きていけないのだ。猫を飼っていても飼わなくても、わたし達は、人のためと言いながら、実は自分のことしか考えず、日々言い訳に生きて、眠りにつく。    ──なのに、わたしたちは生きることが許されている。    そこには、愛 しかない。  わたしの都合で傷つけられた猫娘は、今、わたしの傍らで眠っている。こんなにヒドイ目に遭わされても、彼女は愚かにもわたしを慕う。この愚かさは、崇高だ。無条件な‘それ’そのものだ。  この愚かさ──。    わたし達が「翌朝」を迎えられるという愛は、この愚かさに等しい。  ニンゲンという、世界で一番情けなく愚かなイキモノを担当して、わたしは来年も恥をさらしながら生きていくことだろう。  愛しいものを、こんな目に遭わしてもなお、性懲りもなくいつかもう1匹飼いたい…などとふと思ってしまう矛盾する心を、「このコにお友達を作ってあげたいから」などと、もっともらしい言い訳を垂れながら。     ===ハイ、今回はここでおしまいです===  ああ、一匹の猫ちゃんにも、わたしは叶わないよ…。(^^;)  そんな年の瀬の、ささやかで、でも心に深く刻み付けられた出来事。来年も、こんなワタシがエラソーにごめんなさい…と言いながら、ほざけ続けまする。笑って許してくださいませ。

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