ミケ的奇想 vol.1

2003年~2022年3月のアーカイブ

子供から大人への哲学の螺旋

 「ときどき、コトバにできひん感覚があんねん」  と、横になった娘が言った。  11にもなる娘を今さら寝かしつけをするわけではないけれど、たまにいっしょのベッドで横になることがあって、彼女からいろいろな話を聞くのは楽しい。  「…今、しゃべっているのは『今』なん?っていうか、うまく言えへんけど」  「過去とか未来がぐちゃぐちゃしている感じ?」とわたしが訊く。  「ちがう。ぐちゃぐちゃしているのは『今』なんよ」  これを表現できる言葉は、わたし達の知っている中にはないから、言葉を発した瞬間から嘘みたいになってゆくね…というと、娘は大きくうなづきながら「そう、そうなんよ」と目を閉じたまま言っていた。  「これは何なんやろ?」と聞くので、「ママが思うのは『人生』ではないなあ~。『宇宙』かなあ。いや、『ほんまのこと』…かなあ」  娘は「なんかうまく言えへん」と連発しているので、「『ほんまのこと』は、コトバにならへんもんやねぇ。ただ、なんかわからんけど『大事なあたりまえの感覚』だということだけは確かや」と、わたしもコトバを手探りしながら、感覚を捉えてゆく。  子供は、思いもがけずに哲学的だ。わたし達にも、覚えがあるはず。宇宙の果てに想いを巡らした日を。亡くなった人が星になることを、わたしたちは、体のどこかで「わかっていた」のである。実は、子供の方がずっと本質的に哲学者なのだ。  わたし達は言語を習得するほどに、本質から離れてしまった。あんなに近くにあった宇宙的な感性を手放してしまった。  わたしは自分が遠い昔に無くしたものを、子供から学ぶ。‘あれ’を取り戻すには、わたし達は子供に還られねばならない。つまり、習得した言語を、一度捨てなければならないのである。  言語を手渡されたとき、わたし達は、その代償としてあの宇宙的感性を支払うのだろうか?  もし、そうであるなら、あの宇宙的感性を再び取り戻すために、喜んで、この言語を、学んだ気になり、わかった気にさせてくれたこの言葉を、代価として支払えばいい。  そして、この一見ハチャメチャなメソッドが、実は、本質であることに気づけたとき、子供時代からようやく螺旋がひとめぐりしたことがわかるだろう。わたし達は大人でありながら、哲学的であることができるだろう。

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