ミケ的奇想 vol.1

2003年~2022年3月のアーカイブ

愛情と執着

結婚生活を続けていると「いつのまにか○○になっていた」ということが増えてゆく。 私なんかは、たいそうきれい好きの夫のおかげでおおざっぱでなかなか気づかない質だったのが、ちらかっていると気になるようになっていた。 (彼に言わせると、まだまだみたいですけれど- -;) その逆の人もいるようで(例えば夫…^^;)、いい加減な妻といるうちに、多少の汚れは目をつぶるようになったりとか、相手を気にせずもくもくと掃除をするようになったりなど、いつのまにか迎合しあっている。 私は、かつては、どんなささやかなことでもパートナーに聞いてもらわなくては気が済まなかった。 自分のことに耳を傾けてもらい、理解してもらうことと、相手のことをなるだけ理解しようと、多くを知ろうとしていた。 けれども、これはものすごくパワーを使う。 職場や子供の保護者同士の人間関係の話などしても、彼には、ただのうわさ話にしか聞こえないようだった。 まともに聞いてもらっていたのは、当初3年くらいのこと。 そのうち、こっちもお笑いを交えるなどの、聞いてもらえるような工夫をして話すように考えていたけれど、こういうことも次第に疲れてくるようになる。 しかし、私の場合、この段階がけっこう長かった、って言うか、つらかった。 今思えば、「理解してもらう」ということに異様に執着していたように思う。 「この人だけには、わかっていてほしい」 この考えは、一見、マトモでありながら、けっこうしんどい。 でも、このしんどさを認めなくなかった。 たとえ聞いてもらってなくても、ここで、自分があきらめたら、パートナーにたいする情熱が失われてしまうような気持ちがして、それがこわかったのだ。 私は、彼を好きでい続けたかったし、それが二人の親密さの証のようにさえ思っていた。 これが不思議なことに、長く風雪にさらされていると、変化していく。 理解に対する認識、情熱や恋愛に対する定義が、これまた「いつのまにか」変化していたのだ。 話そうとする前に、それがパートナーが聞いてくれる話かどうか、だいたいわかる。 実際これは、誰でも気づくことだ。 しかし、そこで「知ってもらおう」と執着が働いていたので、勘や気づき自体が鈍くなっていたのだと思う。 同じ話でも、タイミングが合えば快い時もあると知った。 だから言わなければならないことなどは、待つことも学んだ。 彼との会話でもう不愉快な想いをすることもほとんどないし、こちらも嫌なひとことを言う必要もない。 数年前の自分と比較すると、怖いくらい淡々としている。 私はかつて、こうなるのが怖かったんだな、と思う。 パートナーへの愛情がなくなっていくようで。 しかし、違う。 淡々としている気持ちと、愛情は全く関係がない。 私は、彼のドライさのおかげで、自分がとても鋭くなったのを知っている。 相手を自由にしてあげることで、何よりも自分が自由になっていた。 関係をうまく続けるための日々の知恵は、そのまま人間変容の知恵となる。

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