シンボリズムを真剣に探究するようになって、10年あまりが過ぎた。 そのうちに、リアルな幻視をたびたび見るようになって、その意味するところを、何とか探り出そうと、あの手この手を考えだした。 はじめは、幻視の摩訶不思議さと美しさに心を奪われ、何か、特別な理由を探ろうとしていたけれど、実際は、これは特別なことではなくて、自分を観察しはじめると見えだしてくる白日夢に過ぎないことがわかってきた。 特別なことではないし、特別な人に属するものでもない。 「ただの幻視」なのだ。 心の広さ、優しさ、強さとは、全く関係がない。 ましてや、人格的成長とはま・る・で関係がない。 心の鋭敏さにのみ関係してくるだけだ。 この鋭敏さから、心の広さ、優しさ、強さに繋がらなければ、 「こんなもん」百害あって一利無しなのだ。 チャネラーと呼ばれる人たちも然りで、それは、「ただのチャネリング能力」であることを忘れてはいけない。 このような能力は、徳を積んだ人しか出て来ない…などと言い放っていた人を知っているけれど、絶対に違うと言い切れる。 自分を見つめたとき、誰にでも起こり得る現象だ。 極論では、昨夜人を殺した人間にさえ、あり得る能力なのだ。 中には、修業を積んでいく過程で、必然として能力が現れることもあるだろうが、そのような人はおそらく、チャネリングなどの超感覚能力の本質を見限っているだろうから、それをとりたてて神聖視するようなことは、断じてないだろうと思う。 神秘体質になるために、超感覚を養うためのメルマガを発行している私が、こんなことを言うのも、可笑しく感じるかもしれない。 けれど、これは本当に、注意すべき真実なのだ。 じゃあ、アンタは何しているのさーと、問われれば…。 私が、なおも超感覚の必要性を解くわけー。 自分を研ぎ澄まし、超感覚的なものを、さらに、見つめ続けると、現象の奥で、じっとじっとじっと私達を「見つめているもの」…に、出会うようになる。 あるいは、見つめているものーに関して、思考が及ぶようになるだろう。 すると私達は、それに対して、ある感情が否応なく動かされることになる。 簡単に言えば、それは「感謝」の2文字だが、 これが、魔法のように心に効くーのだ。その優しさ、広さ、強さ…において。 だから、幻視などのビジョンやその他の超感覚に囚われて、そこで立ち止まってはいけない。 それらが立ち現れたとき、「まだ奥がある」と一言言って、さらに見続けていきたいと思う。 ただの敏感人間であるならば、それは不都合極まりない。