ここ数日、5年ぶりの非二元探求熱が再燃していた。
もう、決着がついたことなので、もはや、これは起こらないと思っていたのだが、なぜか「ほんとう『ここ』にあるのはなにか?」という、あの懐かしい問いが、私の脳裏を占め始めた。
ただ、昔と違うのは、焦燥感の伴った葛藤はなくなっていることで、もっと、深く、あの発見の感覚と繋がっていたいという思いが湧いてきていて、なんどもなんども問いかけていた。
すると、やはり、すぐに、世界には「何も」起こってはおらず、「これ」「今」しか存在し得ず、思考はもちろんのこと、目に見えているものも、煙に過ぎないことが実感されてくる。
ただ、この感覚を深めたい…という強い思いで、なんども問いかける。
これを数日繰り返していた。
さきほどのこと、お風呂から上がり、タオルで髪の毛を拭き取りながら、ふと、
「あ、この『問い』自体が、今、本当に起こっていることではない」
というシンプルな気づきにハッとした。
もう、今、起こっていること以外に煩わされたくない。
と、思えた。
そして、今、起こっていることに生きたい。
と、それだけを願った。
†
さきほど、めちゃくちゃささいなことから、不安になることがあった。
(ああ、不安に感じているのだ)と認めた。
もちろん、不安など、煙(けむ)の代表格のようなものだとはよくわかっているので、
ただし、否定はせずに、ここに、瞬間起こったこととして、不安感とも共にいようと思った。
ただ、そのままの感覚と一緒にいるだけ。
今、自分に起こっていることとだけ、ともにいたい。それだけだ。
すると、次のフィーリングがやってきた。
(これも、今、本当に起こっていることではない)と。
「今」に還ろう。今、あるものとともに生きよう。
今の「わたし」と生きよう。
すんなりと、今、ここに、戻れる。「これ」のまま、いられる。
今、ここに、「ない」ものに意識が持っていかれるから、
そわそわしてしまうのだ。
今、ここだけに、腹をくくれたら、もう、大丈夫だ。
これは、トレーニング。
そういう意味では、修行。笑
※ちなみに、こういうときは 「勾玉の五」とか7、8のテーマの時が多い。