ミケ的奇想 vol.1

2003年~2022年3月のアーカイブ

勝手に愛情深い

 

ここ2回の記事で、いろいろとたいへんだった件を書いたが、その後、どういうわけか、ずっと弁天さんのご真言を唱え続けている。

 

 

 

今朝の瞑想の終わり頃、ふと、「どこまでも優しくあっていい。傷つけられることはない」というフィーリングを受け取る。

 

 

 

私はこの頃、少しずつ、13の神秘体験の後、5年ほど味わったなんとも言えないアホで優しい境地を取り戻しつつあることを実感していて、そのようなところで響いてきた言葉。

 

 

 

 もっと愛情深くていいのですよ、傷つけられることはないのだから。

 

 

 

傷つくことが怖くて、私は、本来、表現できるはずの「愛」を、押しとどめていたことに気づく。

 

 

 

少し前、知人から、冷たく感じる態度を取られて、今までなら、そのことから相手のことを嫌いになったり、斜に構えたりしていたものだけれど、考えてみれば、私は、もともとその人のことを悪い人だと思ったことはなくて、ただ「合わない人」と相手から思われているだけのことだった。

 

 

 

なんと「私は、嫌っていない!」

 

そう、私は嫌っていなかったの。笑

 

私が嫌わなかったら、何の問題もないではないか!

 

実は、相手が私を嫌うことは、私が相手を嫌うことと、何の関わりもない。

 

 

 

まあ、ただ、相手は、私に対して、よく思っていないのは伝わっているわけだから、そこはそっとしておこう…とは思う。こういうことこそ、単に、思いやりだと感じる。

 

私は、何も、傷つかないではないか。

 

嫌っているのは、相手さんなんだから、それは、ある意味、ざんねんなことではあるけれど、どうしようもないこと。

 

そこは、合わなくてごめんね〜、と軽く言える。笑
どっちが良いとか悪いって話じゃなくて、合う合わないという、あるある次元なんだから。

 

私が嫌っていないのだから、何の問題もないんですよね。いや、ほんま。

 

 

 

うんうん。私は、これでいいのです。

 

 

 

アホで、勝手に愛情深くて。

 

私が、そうしたいからそうしてる。
それだけ。

 

 

 

私は、はっとした。これは「#0 たろう」のメッセージに同じ。

 

「#0 たろう」は西洋タロットの「愚者」
愚者は愚か者と書くけれど、京都タロットのたろうも、まさに、こういう在り方の原点を見せてくれている。

 

 

 

無垢で愚直で……要するに、「良い意味で」アホ。

 

 

 

弁天さんのご真言唱えている時って、たぶん「あなたにお任せしました」と言っているようなものやと思うんよ。

 

そして、弁天さんからの答えは、ただ「わかりました」ってこと。

 

弁天さんからすれば、その後に、こちらがあれこれ悩んでたとしたら「なんで、悩んでんねん?任せたんやろ?」って言いたいんちゃうやろか。

 

 任せたんでしょう?
 傷つくことはないのだから、そのまま愛情深くいてください。

 

 

 

いや〜、世界をどこまでも愛してええねんで。
すごい、解放されへん?笑

 

 

 

弁天さんは、京都タロットで言えば、「#1 いちひめ」に相当すると思うので、
こうして、先の「#0 たろう」さんと合わせて「0+1」。ここから物語が始まるのだと思える。
どうなるか見当もつかない、無限の物語
これは、たろうさんが「良い意味でアホ」であるからとも言える。

 

 

 

「勝手に愛情深い」私たちの本質は、傷つくことを恐れなければ(=傷つくことはないから)、好きなだけ、世界を愛することができる。

 

 

 

…ということは、逆に、だれかを、嫌っても、苦手でもいいってこと。
その時は、思いっきり嫌ったらいいって思えた。

 

人が、自分を嫌ってもいいというのは、
自分の同じ面も、まったくもって許せるのだ。

 

 

 

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