ミケ的奇想 vol.1

2003年~2022年3月のアーカイブ

愛されているという潜在的な自信

 朝方の夢。心を鏡に映したような雰囲気の女性とハグをしていて、彼女が自分のほっぺたに触れながら、すごく調子がいい、などと言っている。リアルな感じの夢見で、起きがけ、金縛りになりそうなくらい。

 起きてから、あの女性は、私の分身ではなかったかと思えた。頬に触れたのは、ちょうど、私が現在、基礎化粧品を新しいものに変えたところで、その使用感のこと。私の中の「彼女」と「私」を、ハグを通じて和解していることを知らせている。彼女は私。

 徹子の部屋にフランソワーズ・モレシャンさん夫妻が出ていた。私は、三十年前に、神戸のとある企業さんが主催していたモレシャンさんと行く京都旅というものに参加したことがあって、それを思い出していた。

 参加者十名ほどの濃ゆい旅で、座禅やら精進料理やら。伏見の酒蔵で利き酒をしたり、お煎茶を学んだり…で、「京都っぽい」旅をモレシャンさんとの濃密な時間とともに楽しませてもらった。

 夜は、ホテルの一室でモレシャンさんを囲んでの女子会的な談笑。当時、私は二十歳前の短大生で最年少。周りは、ちょっと年上のOLのお姉様や奥様ばかり。みなさん本当にオシャレでカッコよくて、モレシャンさんと対等に話のできる「大人の女」に見えた。

 お姉さんたちに、ただのキャピキャピの(←当時、こういう表現が流行っていたのよ)女子大生がどんな風に映っていたんだろう?いや、「ただのキャピキャピ」からしてみれば、そんなこと、どこ吹く風で、それで良かった。つまり、「それが」良かったんだろう。

 この頃は、社会経験ほぼゼロで、人の目を気にすることなど、まるでなかった。(必要なかった)。

 はっきり言ってしまうと、どこにいても「私は愛されている」という潜在的な自信があった。こんな風に言語化できるのは、その真逆の想いに囚われてしまうことが、その後に訪れたことによって意識できたのだけれど。あの頃くらいまで、私は無意識のうちに、(誰からも)愛されていると思い込んでいたのだねえ。

 なんという幸せなことなのかしらん。まあ、そこまでが「子供時代」と呼ぶのなら、私は、長いこと「子供」のままだったわけです。笑

 愛されていると信じていられたことは、実は、そんな単純なことでもないのだけれど。(失われた子供時代があって、それを十で取り戻して、十三の時に……って、この話は長くなるので割愛)

まあ、そんなノーテンキ真っ只中の私の、ちょっと背伸びをした旅。その顕現(象徴)としてのモレシャンさん。

 当時、彼女が執筆した本を一通り読んだ(今も書棚にある)。オシャレでシンプルで、(男女問題が)進んでいるパリという街と、そこに住む人々の美学を、かつてパリジェンヌだったモレシャンさんの書籍から感じ取っていた。

 細かいことは忘れてしまっているが、それらの本に、たびたび登場していたのが、ご主人の永瀧さん。今も仲良く過ごされているのが、徹子の部屋で垣間見れた。(確か、ご主人が十くらい年下なんですよね。仏大統領のマクロンさんも、夫人はずいぶん年上で、自らのパートナーに「若くて可愛い」を主に置かれてはいないってところが、オバサンとしては好感度が高い。笑)

 パートナシップのことを話すのは、徹子の部屋でモレシャンさんを見たことだけじゃあなくて、本日、27年目の結婚記念日。何か特別なことをするわけでもなく、特別なものをいただけたわけでもないけれど、未だに夢を語り合いつつ、老後のことも話し、つつがなくお酒を飲めるという「いつものこと」が、何よりもの幸せだと再認識して語る日なのであーる。いや、「幸せじゃ〜幸せじゃ〜」と、酔っ払って語っているのはワシだけで、夫はニンマリ笑っているだけ、なんだけどねえ。低刺激バンザイ! 笑

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