完璧主義の鈴は、宿題のひらがなを丁寧に丁寧に書く。 一日に、ひらがな1文字、24個をマスの中に入魂。 ただこれだけ書くのに、毎日1時間以上。途中、だいたい1回は、「うまく書けへん」と言って泣きそうになる。
私の幼かった頃と対照的。 「適当でええやん」と言いそうになるのを、ぐっと堪える。 この前なんて、「つ」を24個書くのに、なんと4時間。鉛筆を持っているより消しゴムを持っている時間の方が遥かに長い。 これではさすがに駄目だと思って 「完璧に書かんでもええねんで。『ほどほど』というのもだいじなことやで。 さっさと書くのも上手のうちやで」 と言うが、誰に似たのか完璧主義。半泣きになりながら、気が済むまで書いている。 これでは生きて行くのはつらかろうと思って、ママは祈りながら寝た。
夢で、小学校時代のCちゃんという女の子が出てきました。 Cちゃんは、運動神経が抜群で、男の子と足を競っても早い方。というより、背の高さや見た目もボーイッシュで、性格もしょっちゅう男の子とけんかをしているタイプの女の子。 彼女のことを思い出すなんて20数年ぶりだけれど、Cちゃんは今でも私の中で「半陰陽」のシンボリズムとして生きているのだなあと、感慨深くなります。 Cちゃんが、ベビーカーのようなものに、「わたしのおちんちん」だといって、男性器を入れて、自慢げに見せて歩いていました。
目覚めて、鈴の完璧主義との関連を考えました。
解釈1 「半陰陽」のCちゃんにとって、彼女の中の男性性の象徴である男性器。 Cちゃんは、女の子でありながら、彼女を現す最も特徴的なものが、それに現されているのだと思えました。『それゆえに、彼女はCちゃんである』。 完璧主義はそうでないものから見るとしんどそうだけれど、『それゆえに、鈴は鈴』 なのかもしれない。受容してあげるべきかも。
あるいは、Cちゃんは、彼女らしさ(男性器)を、自分から切り離して持ち歩いていたように、鈴らしさを自在に切り離してもいいのではないか。やはり、たまには「完璧主義」を脱いで楽になってもいいのではないか。
解釈2 男性器は、「男性性」「力強さ」のシンボリズム。 几帳面な女の子っぽさに、ちょっとくらい男の子の「荒い」部分が混ざってもいいのでは?「適当でええやん」と言ってみよう。要はバランス。 私から見れば、彼女の几帳面さというのは頭が下がると同時になかなか理解してあげられない部分でもある。