50年前、お正月のお餅は、一般的に「家でつく」ものだったように記憶している。
実家にも、当時は「杵」と「臼」があって、毎年12月30日は「餅つきの日」と決まっていた。
父が餅をつき、母と祖母が臼の中の餅をひっくり返す。
大人たちは、掛け声で音頭を取り合い、リズミカルに、もち米は餅に生まれ変わった。
最後は家族全員でちゃぶ台を囲み、つきたての餅を丸めた。
小さな私は、年末のこの恒例行事を、とても楽しみにしていた。
ある年、そんな実家に「餅つき機」がやって来た。
炊き上がったもち米を入れてスイッチをONにすると、機械の中で、もち米はあっという間に餅に変化(へんげ)した。餅つき機の中の摩訶不思議な変容を、家族全員で上から眺める。
餅のメタモルフォーゼ。私は、この文明の利器に心が躍った。
かくして、30日の餅つきの日は、餅つき機を眺める日に変わり、臼と杵は、物置の奥へと押しやられた。
いつの頃だろうか定かではないが、お正月準備をしていた時の母のひとことを、私は今も覚えている。
ある年の12月30日。母は、スーパーで購入した、パック包装の鏡餅を手にしていた。各部屋の机の上に裏白を敷き、その上に鏡餅を据えながら、「ほんまに楽になったわ〜」と母は言った。
もはや情緒も何もなかったが、私は、特別にそれを寂しいと思うこともなく「そうやろな。」と思っていた。
臼と杵に次いで、餅つき機もまた、物置で、永遠の眠りに就いている。
現在、母親になった私のお正月準備は、(もちろん)鏡餅のパックを、各部屋に置くこと。5分程度で完了。餅つきに、もはや半日を割くことはない。
餅つきを我が子に見せていないのは、寂しい気がするが、家庭でやらなくても、学校などの年中行事として、年末には、あちらこちらで執り行われている。
そんな地域の方々のおかげで、子供らの心の中には、郷愁の心象風景として「餅つき」は残り続けてくれることだろう。いくらパック技術が進歩したとしても、餅つきの日の、つきたての餅に勝る餅はない。
大人たちの掛け声と頑張り。そして、餅を粉にまぶして丸める時の、熱くて柔らかい感触は、お正月を迎えるためのスイッチみたいなもの。一年が暮れて、そして明けてゆく時の、一種の象徴。
おそらく、それは、私たちの「根っこ」に属するもの。連綿と続いてきた大切な「何か」である。
私は、この、説明のし難い「何か」を説明したくて、もがく。
私たちが、「ここに」立っていることを、この根拠を揺るぎないものにしてくれている。それが、こんなささやかな風習によって、まるで当たり前みたいに作られていることを。