ミケ的奇想 vol.1

2003年~2022年3月のアーカイブ

砦を超える

子供の突然の発熱とけいれんとで入院していた。先日、退院して、現在は元気。^^
この前、ちらっと書いたように、いろいろ書こうと考えていたのだが、喉元過ぎれば…でポコンと記憶が飛んでいるというか、終わった終わった♪…という喜びと、疲労感の名残のぼーとした倦怠感(でも心地よい)が入り交じっている。

今、その時にメモ書きしたものを読んで、ようやく自分の物語を取り戻した感じになり、書こうという気持ちになった。抜ければそれでヨシなんだけれど、ほんとうは。

    †

こどもがけいれんを起こす。わが子がけいれんして失神するのをはじめて見た人なら、だれもがパニックになるんじゃないだろうか。もう死ぬんじゃないかと動転した。そんな衝撃だった。
そして、この件で、実は内心思い当たることがあった。ちょっと、そのことは話し難いことでもあるけれど、心と現実とのつながりの深さを感じる出来事だったので、書いてみようと思う。


この世に生を受けて半世紀足らずと言えども、生きていればいろいろあって、私には世界で最も憎いと感じている人がいた。自身にも大いに落ち度はあったが、それを差し引いても、許し難く感じる出来事があった。

しかし、もう昔のこと。ふだんはすっかり忘れたように暮らしているが、やはり、強烈なことはときどきフラッシュバックをもたらすようで、この件に関して言えば、フラッシュバックと言っても「出来事」が蘇るのでは全くなくて、もう忘れているはずの当時の絶望感や悔しさ、憎しみという「感情」が、唐突にふつふつと湧き出てくるというものである。

こどもが高熱を上げる前夜のこと、久々に憤りと憎しみの感情が湧いた。「気づき」以降もときどき感情のフラッシュバックは起こることはあったが、久しぶりの強い感覚だった。もう、その感情に対してなんとかしようというところはないので、いつもなら「そっかぁ。まだ残っとるなぁ」と見送るところだが、この時は、ちょっと違っていた。心の中で相手をぶったおしたのだ。(笑)

心の中だけのことだし、私の憤りは正当なものだから大丈夫という気持ち(≒甘え)があった。「意識でぶったおす」という物騒なイメージは、思い返せば、その当初、無意識のうちにやっていたことでもある。辛いことがあると、たぶん、イメージの中で凝り固まったものを解き、気分を、ある意味安全に晴らしていたのだろうと思う。

でも、この日は「無意識」ではなかった。一方で、正当だからというところに、もうこだわることはないのだろうということも思っていて、ここで、「ぶったおさない」という選択(笑)もあることもわかったのだが、私は「あえて」そうしたのだった。

その瞬間、ふと、すべては自分だから、自分が投げたものは、同時に返ってくるのが必定だと改めて感じ、その時、隣で寝息を立てている私の最も大切なこの子を思った。脳内でなぜか(明日、あぶないかもよ。その時、考えなさいね)と、別の自分の声が聞こえた気がした。(声というより、そういう印象の考えが)

「まさかねぇ」と思った。彼はとても健康で、ここ1年半くらいは大した風邪もひかず、発熱もなかった。前日は運動会でハイテンションに元気だったし、この日も子供の陶芸クラブなどで楽しそうに過ごしていたところ。発熱する予兆など微塵もなかった。

翌日の午前中にはじまった突然の発熱。いきなり39度を上回った。しかし、まだ当初は、前夜のことはすっかり忘れており、実のところあんまり心配もしていなかった。むしろ、滅多にないボンの不調だったから、ずっと彼の傍にいて面倒を看てあげられるって何か幸せやな〜などと不謹慎なことを思っていたのだった。

夜になって、けいれんを起こした彼は意識を失い、私は動転した。救急車で運ばれそのまま入院。
点滴を受けても、熱は簡単には下がらず、夜は気が気ではなく一睡もできず、カンカンに熱くなっているボンの身体に触れながら、そのとき、はっと気づいたのだ。そして、昨夜の意識上の横暴を詫び(^_^;)、「この子の健康に代えられるなら、今すぐ全部を愛するから!」と思わず心で叫んだ。

そう、発作的とは言え(笑)、私は神に約束をしてしまった。
あの憎いと思っていた者のことも。もう、自分の正当にこだわるのは止めようと。
そこが、私にとっての最後の砦であった。自らの正当性──それを捨てられるか。

自分が間違っていなくて、相手が間違っていると思うことで得られることはなんだろうか。
自分が正しいという思いを得られたと言って、それが何になるのだろうか?
自分が正しい……だから何なのだろう?

少なくとも「自分が正しい」という思いからは、「愛する」思いを得ることはできない。狭義の意味での自愛に当たるかもしれないが、その愛は、私が本気で欲しいと望んでいるものではない。
もちろん、この意味合いの自愛も大事な時期も確かにある。とにかく、なんでもOKであるから、自分の正当性を感じて、まずは自らの中にそれがあることを認めてOKを出していく過程がなければ、いきなり他者を許すのは難しいとは思う。しかし、ここにいつまでも絡まっているのも、単純に「イケテナイなあ」と思えた。

「なんであれ愛する」
そこに行きたかったけれど、これは所詮ムリなことだと決めつけていた。少女の頃、「そこ」を体験してしまったことがあっただけに、あの心境を乞い求めつつも、あれはたまたまの恩寵だったから、何もない今はムリに決まっている…などと考えていたのだ。
「気づき」以降は、「そんなんムリに決まってるやん」という思いも自分で認めてしまえるので、ムリなことを変えようとか、愛をあえて引き寄せようとする苦しみはなくなって、楽になっていた。(だからこそ、あの時「意識でぶっとばす」という選択も、わりと簡単にできたのだろう)

しかし……最も愛するわが子の命を前に、自らの正当性など屁に等しかった。(笑)
私が正しい…など、子の命の前に、もはやどうでもいいこと。
すべてを愛するなんて、所詮ムリだと思っていたが、自らの正当性など、簡単に引き替えられた。
いや、簡単に…なんてことは、本当はなかったんだけれど。つまり、運命が、子供の命というリーサルウエポンというか伝家の宝刀を持ち出してくるまでは、できなかったことだけれど。
とにかく、そうすると決めた。だから、うそでもやる。心の中で正当性がうずいたとしても、とにかく愛する。なんであれ愛する。
それが、あの瞬間に決意したこと。

ここに導いてくださった厳しい神様。ありがとうございます。
そして、こんな物語を紡げた自分にも。
胸がぽっぽと温かい。

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