ミケ的奇想 vol.1

2003年~2022年3月のアーカイブ

探究の終わりについてのつれづれ1

(たまには、こういうものを書きたい時もありまして…)

探究の終わり と聞くと、探究というものに、何らかのゴールを想像するもんだと思う。
私の場合、確かに「探究」に「終わり」はきた。そこのところを、ちょこっと書いてみたい。


探究の終わりとは、探究している状態が終わること(当たり前か…(^^;))であり、存在について苦悩と葛藤から開放されること。
私の場合、それは「本質探究」に対する関心の喪失とも言い替えられる。簡単に書いているが、本質探究が性格の一部を形作っているようにすら感じていた私にとって、これは奇跡のような感覚の変化であったのだった。積年の間、執着して止まなかったものが、興味すらなくなることによる霧が晴れるような開放感が、(私の場合)急に ではなく、じわじわと新しい「個体」を作っていくような感じ。

まずは「探究」自体がもはや気が狂うくらいに苦痛であって、それをイヤになるほど自覚している状態があったってところから書こう。これは経験したもんやないとわからん重苦しさがある。

もう、なんでもいいから、こんなしんどいもん手放したいと、かつて、真剣に、切に、身悶えるほどに、願っていた。ヘンな喩えだが、その頃の精神状態は、分娩直前に感じていたことに近い。妊娠中は、健康な子が生まれてくれれば…と、まあ、普通に思っていたわけだが、陣痛が激しくなるにつれて、私は分娩室でこう叫んでいた。「こら赤子ーっ!もう、なんでもええ!なんでもええから、早う出てくれぇ〜!」と。(笑)

そんな感じ。(なんじゃそりゃ…(^^;))

まあ、とにかく「なんでもええから、探究よ!この『求め』よ!止まっておくれ!このままでは、ワシは悶え死してしまう。ああ、後生やから〜頼む。お代官さまぁ〜〜!」と、目に見えぬお代官様にすがりつくように日々祈っていたのだった。

経験していない方から見れば、だれも何も頼んでないのに、アホちゃうか?って話であろう。ほんま、確かに、その通りなんである。(笑) まっこと、どアホ。考えてみれば、自分が想像上で作ったに過ぎない「探究」というハードルを、飛び越えられない〜と泣いているなど気が狂っているではないか。まったく、その時の自分に言ってやりたい。そいつは、お前さんの夢の中にしかおりゃせんぞよと。

たとえば、美しい運動場に並べられた黄金のハードルを跳んでいる夢を見たとする。夢から覚めたあとも現実の世界で「あれを飛びたい〜!」と泣いて悔しがっている人がいたら、コイツは狂っていると思うにちがいない。アンタは、まさに、それをやっておるんじゃよ、と。(笑)

なんで、これほどにばかばかしいことが止められなかったか?

今になると、よくわかるのだけれど、それは、「ゴール」とは「◯◯というもの」というふうに、ゴールのイメージを‘勝手に’決めていたからだ。
そのイメージは、単に「イメージ」。それ以上のもんはない。つまり「架空」のものである。そのことに気づくと、ゆるゆると何かが解かれ始めるような気がする。

ちなみに、私はゴールを、「自己の不在の発見」と「(少女時代の)あの愛の神秘をもう一度」と決めていた。(笑)

ヘタにいっぺん愛を垣間みたせいで、「あれぞゴール。いや、ゴールやなくても、ゴール手前のものだ!」と設定してしまっていた。

ただし、「あの愛の神秘をもう一度」については、架空の設定に気づくとわりと早い目に見切りを付けられた。

しかし、「自分の不在の発見」については、どうしても、どうしても、捨てられなかった。それが単に、私が決めた架空のイメージであるというカラクリも見抜いておきながらもなお、どうしても捨てられない。捨てたフリをなんべんも試みたりもした。もう、捨てたのだと思い込もうとした。

しかし…でも……最終的に自分にウソは付けず、まるで、夢に現われた叶わぬ初恋の相手をいつまでも未練タラタラに想い続けるように「あかん、忘れられへん…」と涙するしかなかった。どんなに強がっていても、もうムリ。「私はアホで、いつまでも夢の中の恋人しか好きになれません。ほんまにどうしようもないヘンタイです」と「負け」を認めるしかなかったのだ。

負けを認め、絶望して、それから…。…はじめて、心から「もうええわ」と思った。その時、前にも書いように「気づき」がやってきた。ひょいと、気づいた。あっけないくらい「ひょいと」。(笑)


*1


何が言いたいのか。
「気づき」(←いろんな言い方があるけど…)がゴールなのか?
否。それは論点ではなーーいっ!

最初に書いたように、探究の終わりとは、単純に探究している状態が終了すること。
その状態を終わらせるものは、実はいろいろある。別に、仮のゴールを達成しなくても、「はい、ここで終了〜。ワタクシ、もう止めます」と言ってしまってもいいのだったと、今は思える。探究の終了は、単に「終了」。決して何かの「完了」ではない。「止める」と決めたら、可能である。

でもでも……それができないのが探究に取り憑かれた状態。(笑) それは、ある種の人情みたいなもん なのかもしれない。

そういう人の気持ちは、よくわかる。よくわかるどころか、ズブズブに共感できる。(笑)

だから、ここからは、人情から抜けられないしつこくも優しい人のために、絶望の言葉を書こう。


(注※探究の終了はいろんな場合があるから、この先は読む必要ははっきり言ってないよ。ある種の人情から抜けられない少数の方だけに向けて書きました^^)


パターン化できないのが「気づき」の世界だから、矛盾のある言い方になってしまうけど、「よくあるパターン」の一つ、というところで聞いて欲しい。

ひとことで言えば「懲りた」あるいは「気が済んだ」という気持ちが、探究の終わりをもたらすことが多いのではないだろうか。

先ほどの例で言えば、架空の初恋の相手を思い続けることに「気が済めば」、

「ああ、類稀なイケメンであったが、そもそも彼はこの世の人ではなかったのだった…」と我に返るか、あるいはド真剣に絶望することもできるのだ。

この絶望から、夢の人物を想い続けていることが心底バカバカしい…ということに気づき(つまり想いに懲りて)、そこでやっとこ「もう、や〜めた!」と言うことができる。


思うに、こういう人は多いのではないか。
どうしても光明を得たいと、あちこちの門を叩き、賢人、先人の話を聞きまくり、座禅とか、瞑想とか、さまざまにワークをし、レクチャーできるくらい詳しくなり、けっこうなお金を遣って、うっかりするとそのせいで恋人や家族とも不和になったり、仕事もうまくまわらなくなったりもして、それでも、いつかすべては救われるんやないかと歳月を掛けて、またあちこち門を叩き………散々繰り返して、ある時、自分がその旅にめっちゃ疲れていることに気づく。…そして、「もう、お腹いっぱい!」とネをあげる。「懲りる」。

……その時こそが福音。ながーいながーい探究が終わる日。


探究に心底飽きて、心底懲りて、心底気が済んで、ようやく手を離すことを覚える。


考えてみれば、そういうものは多い。
アル中の人がお酒をやめるきっかけは、死ぬかもしれないくらい身体がボロボロになって苦しい思いをすることで、お酒に懲りるから。
あるいは、女にだらしない男性は、刺し違えかねないようなドロドロの愛憎劇に疲れ果てて、多少はまともになったりもするように。(笑)

なので、いやだいやだ言いながら止められないものがあるとすれば、実のところ、まだ心底懲りてはいない。(私も含めて)多くの人はそう簡単には変われない。たぶん「死ぬかもしれない」くらい追いつめられないことには。

     †

でも、もう、これからの人は、こんなことを考えんでもええんやないかと、私は今、思いはじめている。

もう、追いつめられなくてもいい。

もう「悟り」を探究のゴールに据えなくてもいい。ただ単に探究を「止める」だけ。

それでいい。もう、そのままのあなたを「認める」。そこからはじめてもいい。

なぜなら、今だから言えるが、

『(葛藤を捨てて)心穏やかに過ごす』

地上生活、はっきり言って、これがゴールだと思っていいから。(キッパリ!)
だから、(ある意味)ほんとにそう決めれば、今すぐ叶う。

そして、あなたは、おそらく、その後にじわじわと気づくだろう。
穏やかに過ごす中で、「だれ」が穏やかに過ごしているのだろう…ということについて。
そして、おそらく、次いで、気づく。
自分の不在なぞ、知っても知らなくても十分で、知っても知らなくてもいいってことを。

だから、まちがっても、ゴールを「自己の不在を知ること」なんて決めぬことである。(笑)


なんとなくの勘なんだが、これからの人類(大げさ?(笑))は、今までと全く逆のパターンで、目指しもせず、求めもせずとも、静かに気づいている人が多発するのではないかと感じる。

ただ、そういう人は目立たない。だから、多発していても、あまり気づかないままだろう。なぜなら、気づきをあたりまえのこととして自然に受け入れているから。声高に語ることは、彼にとってはほとんど意味がないこと。だれも「ワシの腹にはヘソが付いてるぞー!」とは叫ばんように。(笑)

それに、これこそが今の私の本心だけど、気づき≒認識の変換などなくても、それ以上に大事なこと──穏やかに過ごすこと──がちゃんと適っていれば、もう、それでオッケーなのだ。

「気づいたから探究が終わる」っちゅう因果の中から導かれるのではなく、

「探究を(自ら)終了させて、のち、自然に気づく」方が、ずいぶんラクでスマートでいいなあと思う。

気づいていなくても、探究を終える。とにかくその手を離すこと。ラクになること。

もちろん、どっちでもいいし、どっちかでなくてもいいけれど。


探究が終わった状態というのは、最初に書いたように、存在に関する葛藤がなくなった穏やかな状態であって、それは「探究」の苦しみを捨てたところにある。なので、そもそも最初からゴールを決めずに、何も知らずに穏やかに過ごしているのであるなら、それは「あたかも探究が終わったような」精神状態なのだから、もうそれで十分ではあーりましぇんか!と思うのだ。

そうこうしていれば、きっと、気づくときには気づく。多くを望まなくても。何も聞かされていなくても。

またその逆で、本質探究が楽しくてしかたがないという人がいるとしたら、もちろんそれを終わらせようなんて発想にはならないだろうし、その必要もない。
楽しいこと、興味のあること、好きなことは、どんどん追究すべしだと、私は思っている。


ついでに言うと、今の私は、できるだけ、「気づき」の状態については、人に話したくないと考えている。第一、伝え切れる力量がないし、それ以前に、もう関心自体が薄い。(笑)

じゃあ、今、アンタは誰のために何を書いているかと問われれば、一般的な探究者を対象にしているのではない。あくまでも、かつての私のように、「開放したいのに、できない」ともがき苦しんでいる一握りの気の毒な民(笑)のみを対象にしたものなので、一般向きではありませんよーん。はい。

ひょっとしたら該当者は少ないかもしれませんが(^^;)、こんなへっぽこブログでも、ほんのちょっとの助けになることができれば、本当にうれしいです。

(とりあえず、本日はここまで^^ ほんま「つれづれ」し過ぎで、起承転結まるでナシですみません。勢いだけで綴っておりますが、何かが伝わればいいな〜)

*1:(何が言いたいのか、ここで終われば、誤解されておしまいなので、もうちょい続けます。)

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