ミケ的奇想 vol.1

2003年~2022年3月のアーカイブ

先生、師について(探究の終わりについてのつれづれ3)

昨日、書いたような行程は、飽くまでも私の場合であり、目の前の地平への私の向かい方。当然、人にはいろんな役割があり、ある程度のフォーマットやパターンを「変わらず」伝えていくというタイプの人々は、今の世界には絶対必要だと思う。この「変わらず」というところが愛 なんやろなあ。

小学校がなくなったら、学ぶべき場をなくした6才から12才の子供らがたちまち町に放り出されてしまう。それと同じく、迷える仔羊さんらが世界に溢れないように、常に「同じそれ」を伝え続ける人は必要だ。また、「同じそれ」も個人によってツボはさまざまなので、「さまざまなバリエーション」があるに越したことはなく、だからこそ多くの先生がおられるのは素晴らしいことだと思う。

私は特定の師というものを持たずにやってきたけれど(まあ、もちろん好みの人の本を読む程度のことはしたことありますよ)、近ごろ、噂?を聞くことがちょっと増えて、本当に先生という存在はすごいなあ、大変やなあと思わずにはいられない。 先生というのは、自分を踏み台として差し出せる人のこと。生徒が卒業する時に見送れる人。弟子が自分よりも飛躍することを祈れる人、それを喜べる人。 考えてみれば、これは育児と同じだから、わが子に向けるような成熟した深い愛情がなければできない仕事。弟子の船出に嫉妬してじゃまするような幼稚な先生では目も当てられない。

私は、何年か前に、ブッダの「五戒」についてのお仕事をいただいたことがあり、その時は、悟りを開いて自由なはずのブッダが、どうして不自由な戒律を決めたのかが理解できなかった。(実は、五戒だけではなくて、その後、弟子たちも含め、びっくりするくらいたくさんの掟が作られていることについてはご存知の方も多いのでは?) まあ、二千年以上前やから、そういう殺伐とした時代やったんかな? くらいしか思ってなかった。

今、私が勝手に思っていることだけれど、五戒ってある程度は必要やなあ〜ってこと。 「気づき」があると、あるがままの状態を丸ごと認めることをいとわなくなる。それが自分を開放してくれて、それがとっても素敵なんだけど。

中には、認識が変化したとたんに、その衝撃から、人格までも変わってしまう人がおられるようだ。そこのところも、よーくわかる。私自身も、少女期の至福体験によって、世界が「愛」でできていることを理解し、その瞬間から「嫌いな人が世界に一人もいなくなる」という信じ難い(笑)精神状態に5年ほど包まれていたことがあった。

でも、この初夏に起きた認識のシフト(Pさん=momoさん いわく「空観」の気づき)は、あまりにもシンプルな「まんま」の気づきだったので、衝撃がある意味少なくて、人格や性格への影響ということがまるっきりなかった。(笑) そのままの自分を、ただただ容認できる器?の方が主導するようになっただけ。

これはどういうことかと言うと、気づきがあっても、今までの性格が、その後もまんま踏襲されていくことを意味している。今まで疎ましかったちょっとした自分の「歪み」は、むしろ愛おしいくらいなので、歪んだまま(笑)、当面は「持ち歩く」。 (ただ、丸ごと認めることで苦悩がなくなり、それによって古いクセのあるプログラミングはゆるゆる解除されたり、変化していくものはあると思う) だから、たぶん、ブッダとその弟子たちは、気づき前の生き方として「五戒」を定めたんやないか…などと(勝手に)考えている。

五戒の中には「殺すなかれ」という意味の「不殺生戒」というものがあるが、それを、あらかじめ性格として定着させることには、おそらく「その後」にこそ意味を持ってくるような気がする。

以前に記事でも書いたが、私のように、憎いと思う人がいた場合は、ちょっとよろしくないことが起こりうる。「不殺生戒」ではなく「なんでもアリ」という考え方を強く持っていた場合、空観の気づきによって開放された瞬間、何をしでかすかわからない自分が主導してしまうかもしれない。 私が、イメージの中で、‘そいつ’を「悪気なく」ぶっとばしたように。(もー、しましぇんよ〜(^^;))

Pさんも、空観の気づきだけの場合「やっかい」と書いておられるが、それはたぶん、こういうリスクのことにも当てはまるのではないだろうか。

…なんか、いろいろ書きましたが、そんなこんなのリスクも含めて腹をくくっておられる、サトリ系の教師という人々は、ほんますごいなあ、たいへんやなあと思う。

私は現在、個人の気づき というところで分けたくないという思いが強く(=それに気づいた人、気づいてない人 というような)、それはたぶん、ずっとそこに重きを置いて探究してきた反動のようなものも大いにあるのだろう。何べんも書くが、その思い込みによって、ずいぶん苦しんだから、私としては、そこで苦しむ人を作りたくないという気持ちがたいそう強い。

でも、「な・に・が・な・ん・で・も・気づきたい!!」という気持ちに心が支配されてしまうというのも、ほんまによくわかる。もう、こういう時ってのは、殺されたってやめられないのだ。心で信仰してりゃいいものを、踏み絵がどうしても踏めないのと一緒である。(^^;)

だから、そういう救いようのない人を救うために(笑)、こういう分野にも先生という存在は必要とされる。

ただ、私は、そういう悶絶級の苦しい思いをせずにはいられないような人以外にまで、そういう発想や概念(≒その人にとっての架空のサトリ)を与えてしまうようなものについては、いらんことやねんなぁ〜と思えてしようがない。

…しかし、こんな危惧もまた、わたしの個人的なトラウマに由来することなんだし、こんな私でも救われたことを考えれば、きっと杞憂に終わることだろう。もう心配はするまい。(笑)

(つづく…)

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