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よろず堂さんの「よろず箱」は、富山の置き薬のように、昔はどこの家庭でも一箱は置いていたものだった。 このごろは、快く「よろず箱」を置く家も少なくなってきたが、よろず箱の根強いファンも多いらしく、うちの母なども、よろず堂さんの訪問をいつも楽しみにしていた。
その日は、母がたまたまいなかったので、僕がよろず堂さんを迎えた。 彼が、「今回のはすごいんだよ」と言って『納得のいかない雑巾』をケースから取り出した。
「何が、納得がいかないんですか?」と僕が聞くと、 「それは使った人にしかわからない。売っている私がしゃべっちゃったら、効果がなくなっちゃうんですよ」 と、よろず堂さんは答えた。 「きれいに拭けないとか?それとも分厚すぎて搾れないとか?」 と、僕がもう一度質問すると、 「だから、使った人にしかわからないんだって」 とよろず堂のおじさんは苦笑いしながら言った。 でも、僕は、納得のいかないものを買うわけにはいかない、訳のわからないものにお金は払えない‥‥と言うと、 「この雑巾は、納得しちゃったら商品にならないんだよね」 と、彼は答えた。 「‥‥ただね、一つだけ言えるのは‥‥‥」 「え?何?」 「‥この雑巾は、哲学者にしてくれるんだよ」 「え?どうして?」 「それは使った人にしかわからない‥‥まあ、一晩考えてみてよ。それでどうしても『ふつうの雑巾』の方がいいっていうのなら、ふつう...を売りますけどね、私は断然、こっちの納得のいかない雑巾をおすすめしますよ。この雑巾は、三十才を過ぎた頃からね、じわじわと効果が出てくる。君は、三十過ぎて、冴えないオジサンになっていたいか?それとも哲学者になりたいか?」
僕が「冴えないオジサンにも、哲学者にも興味がない」と言うと、彼は、全くハナシにならない‥とでも言うように頭を振りながら、 「君ね、男が三十を過ぎたら、道は二つしかないんだよ。冴えないオジサンか、哲学者か‥‥君のまわりを見てごらんなさい。‥‥って言っても、98%は冴えないオジサンだろうけれどね。哲学者のほとんどは、若い頃、納得のいかない雑巾を一枚は買っているもんだよ。ソクラテスもアリストテレスもプラトンも。そうそう、ニーチェだって持っていたよ。ここだけの話」 僕は、納得のいかない雑巾を買い、それをよろず箱に片付けた。 そして、次の休みに、さっそく水拭きをしてみようと思った。 (完) [/h2vr]